「井筒」こぼれ話
山崎有一郎
在原寺
奈良から初瀬に向かう旅の層が、在原寺の跡を尋ねたところから、能「井筒」は始まる。もっとも、舞台になる在原寺は三箇所に遺跡がある。まず、奈良天理市石上の在原山光明寺、次は同じく布留の良峰山石上寺、最後は同檪本町の在原神社である。
ここは、"昔男あり"と言われた在原業平と紀有常の娘が住んでいた所なので、旅僧は二人の跡を弔っていた。そこへ女が塚に水や花を手向けに来たので、話しかける。
――二人が幼い時、よく井戸の周りで遊んでいた思い出が蘇る。「筒井筒井筒にかけしまろがたけ、生いにけらしな妹見ざるまに(暫く会わなかった間に、僕はこんなに大きくなった)」と言えば、女は「比べこし振分髪も肩過ぎぬ、君ならずして誰かあぐべき(私の髪もこんなに長く肩まで伸びましたが、一体誰が上げてくれるのかしら)」と互いに求婚の意思を確かめながらゴールイン。
しばらくすると夫は余所の女に心を引かれ毎夜通い始めた。妻は「風吹けば沖つ白波龍田山、夜半にや君のひとり越ゆらん」と夫の身を案じて待つ"待つ女"となったが、その慎み深い妻の姿を見て、夫は己の非を悟った、と言う。――
女は井筒の陰に消える。"井筒の女"は、やがて業平形見の冠や衣装を付けて現われ、往時の業平を真似て舞うが、やがて寺の鐘の音とともに夜もほのぼのと明け行くと、僧の夢は覚め、松風の芭蕉葉を打つ音だけが聞こえていた。ここで能「井筒」は終わる。
井筒とすすき
作り物に使う葉の類は、ニ、三の例を除いて生葉だが、花類は造花が多いのは、水を切って長い時間舞台に出して形が崩れては困るからであろう。「井筒」のすすきも多くは造花でバサバサは困るが、季節には生花を使うと、なかなか風情があるもの。
作り物の井筒の高さは、高いのと低いのがある。高いのはシテが立ったまま井戸の中を見込み、低いのは前に座り肘を掛けて見込むものだが、そこですすきの付け方が問題になる。無論、演者の好みであろうが、高い井筒の時、右手前角ならば、右扇ですすきを押して見込むことになろう。また、低い井筒で肘を掛ける時は、左肘を掛けるので、右手前角のすすきを右扇で払いながら見込むのはよいが、左手前角にすすきがあっては、左肘の掛け具合はどんなものであろうか、考えもの。
万三郎師のお話に――「物着」では、井戸の見込みが二度あり、初めは「寺井にすめる」、二度目は「業平の面影」と下に居て、左肘を井筒の縁へかけ下を見込むのだ――と言われた。つまり「物着」だと井筒が低くなることになる。常だとシテは下に居て姿勢は低くなるので、かえって井筒は高くても良く、床几に掛けるとシテは逆に高くなるので、井筒を低くするのであろうか。時に、中途半端な高さにすることもあるのは、床几のシテをカバーするためであろう。
江戸時代に、本願寺坊官ながら金春流の能の奥義を究めた諸書を著した下間少進の著『舞台之図』『舞台抄』によると、「井筒」の作り物に付けるすすきの位置は、シテから見て右手先の角、つまり客席寄りに付けてあるので、その頃、井戸を見込む型には、すすきそのものはあまり影響しなかったのであろうか。
丹波猿楽の流れ―梅若家
WHAT IS 梅若
梅若家の歴史
文:沼佐真也子
「芦刈」
1416年、仙洞御所で猿楽が催され、梅津家(梅若家元姓)が演能する。これが丹波猿楽梅若の名が文献に認められる最初である。以後、公式な出演記録が文献上ひんぱんに登場することとなる。
梅津家は京都梅津の豪族で、同家系図上では橘諸兄を祖とし(664)、後に梅若姓となる。この地で諸兄の母を祭っている京都梅宮神社は梅津家と関係がある。
観阿弥が結城座(後の観世流)を創設したのが1363年、息子で後に能楽の基礎を確立する人となる世阿弥が生まれたのもこの頃である。これが大和猿楽であり、金春、金剛、宝生の各流も同じ流れである。
梅津家が梅若姓と改めるのは、1481年、梅若太夫景久が後土御門天皇に召され、宮中で「芦刈」を演能の折り、「若」の一字を賜わったことによるもので、以後今日まで「芦刈」は梅若家にとって特別な意味を持つ番組である。
応仁の乱に始まり百年続く戦国時代に終止符を打ち天下統一を果たした織田信長にも寵愛されたにもかかわらず、梅若家は丹波城主明智光秀の家臣であったため、1583年本能寺の変で梅若家39世当主広長は戦傷死する。広長の死直後より1591年(天正19)にかけて、梅若太夫の名で禁裡初め石山本願寺、京都の大仙寺等多くの演能が奉じられている。これは、残された梅若座、梅若党の人々が相結束して組織を守った姿であった。その間、幼主九郎右衛門氏盛は文武両道の人として健やかに成長し、やがて徳川家康に仕え、以後江戸時代を通じてのゆるぎない基礎を築く。
四座制定と武家式楽
江戸時代に入って間もなく、能楽は武家式楽として四座制定(大和猿楽の観世、金春、金剛、宝生)となるが、この時、梅若家は武家であり京都に所領があったため、江戸へ出るのが遅れ、結局、観世流のツレ家として入ることとなる。これにより、梅若家は座の家元にはならなかったが、勧進能の際などでシテを勤める"太夫"と称され家元並の扱いを受け、祿も観世宗家からではなく徳川家より直接受けていたようである。
余談となるが、四座制定の際に江戸へ出て行った梅若家を「領民を置き去りにして、ある雪の晩に"夜逃げした"」という『梅若家没落の昔話』というのが今も丹波では語り継がれている。
万六銕の黄金時代
時代の激動と共に生きた600有余年の永い能楽の歴史は、日本史の縮図でもある。戦乱と政権交替の度に財政存亡の危機にさらされた。明治維新による政権交替から、それまでの基盤であった江戸時代の幕藩体制と武家階級消滅の結果、観世宗家は徳川家に従って駿府へ移る。一方、梅若家は朝臣願いと決し江戸に留まる。この時ともに江戸に残ったのは観世分家筆頭の銕之丞家のみだった。そして梅若家も財政的苦境に陥る。装束を付けずに演能したり、木綿の風呂敷を揚幕替わりにしたこともあった。
ともかくも梅若家は1873年(明治6)、厩橋に能舞台を建てるに至り、華族能を催す。明治の元勲岩倉具視は欧米視察の折り、芸術文化を大切にする欧米の社会文化に啓発され、日本の芸術文化復興の必要性を痛感し、帰国後、能楽に着目するのである。
華族能が繰り返されて行くうち、それまでは入場料のようなものの存在しなかった能楽であったため、菓子折や御礼などであったが、観客が一定額を出し合って出演料とするシステムが初めて能楽界にも導入されることとなる。
能楽界の各家元が東京へ復帰するきっかけとなったのは、岩倉邸で梅若六郎(初代実)が奉った天覧能である。この時六郎の計らいで、しばらく公式な舞台から離れていた宝生九郎も梅若の舞台に立つ。こうして梅若家も、そして共に能楽界も、三井家や三菱の岩崎家など財閥の庇護を受け再び隆盛を極めることとなる。
初代実は息子の万三郎、六郎、銕之丞の三兄弟を毎月1と6のつく日に各々シテを勤めさせ、この"一六の稽古日"と通して鍛え上げ、後に三名人と称された万六銕時代の到来を迎える。
そして昭和から平成へ
その後、観梅問題やその他の諸問題があったにもかかわらず、梅若家は隆盛を極めていく。
昭和に入り大衆能も始まる。(1933)演能の宣伝に街頭でマッチを配ったり、飛行機からビラをまいたりと大成功を収めて行ったには、初代実の才覚に負うところが大きい。翌34年には梅若謡本初版刊行。37年、初代実日本芸術院会員。第二次世界大戦では他家も被ったように梅若家も、疎開させてあったにもかかわらず、多くの由緒ある面、装束を空襲で失った。
大戦後の55年、二代実が日本芸術院会員に列せられ、60年には現在の中野区東中野に梅若能楽学院会館能楽堂が完成し、日本唯一の能楽専修学校として梅若能楽学院を開校、現在に至る。
梅若靖記
今年の夏に、イギリスとフランスのバレエを鑑賞する機会がありました。ロンドンで、ロイヤルオペラハウスにての公演は、ひとことでいうと、全体的に「元気がない」というのが印象でした。一方、パリのバスチーユのオペラ座では、観客も舞台に立っている人達も、互いに緊張感をもって、良い均衡を保っているという感じがして、大変勢いを感じました。当初、パリでのオペラ座行きは予定に無かったのですが、たまたま評判を聞いて、出かけることにした次第です。
パリは、
東京に比べると大田区と世田谷区を合わせたくらいの都市ですが、
街の中で、芸術や文化のことが話題になり、うわさになり、
生活の中に溶け込んでいる印象です。
日本でも芸術や文化のことが生活の中に入って、
心豊かに暮らして行けることが、
本当の意味での生活が豊かになることだと思います。
まだ、日本の中では、芸術・文化というものは、肩ひじ張ってかしこまって鑑賞するものになっています。もっと気楽に、芸術・文化を楽しんで行く環境が根付くように、それにかかわっている人達が努力していかなければならないと、また、そんな土壌のあるパリで公演してみたいと、気持ちを新たにした旅でした