第3回「招魂」平成7年10月10日
「砧」の鑑賞について
鈴木 彰
能の面白さは観る人によって様々だろうが、いずれの番組も室町時代という、今から600年も時を隔てた、しかも同じ日本人によって創造された演劇であるという点は、誰もが最初に興味を持つ事であろう。もちろん新しい時代の曲もあるが、全曲の3分の1近くは世阿弥によって創作されたというのだから、世阿弥という人に対する興味は尽きない。
ところでその世阿弥をしてこの自作の「砧」について、次男の元能に「かようの能の味はひは末の世の知る人あるまじき」と語った。(甲楽談義)というのだから、ますますこの曲に対する興味は湧いてくる。
当たり前の話、作者は自分の作品を過大評価したり、あるいは同時代には受け入れられなくとも「やがて私の時代が来る」と信じたりするのが常。そういった俗世から超越した世阿弥の芸術感からか、あるいは政権交代に伴い能楽師としての主導的地位が甥の音阿弥へ移っていく世を悔やんでか、いずれにしても世阿弥の予感は当り、江戸時代に素謡として取り上げられるようになるまでほとんど上演されなかったという。
さて、そのあらすじとは・・・・・・
九州の芦屋(元・福岡県遠賀郡芦屋町)の豪族・某氏(ワキ)は訴訟のため都に来て3年過ぎようとしていた。故郷に残した妻のことが気にかかり、「今年の暮れにこそ必ず帰る」旨を伝えるために、侍女の夕霧(ツレ)を妻のもとへと使いに出す。
夕霧は芦屋に着くと主人の妻(シテ)と会い、主人の便りを伝える。しかし夫の帰りを待ちわびていた妻は、華やかな都仕えの夕霧にさえ半ば嫉妬し、田舎に留まり孤独に身を焦がし、独寝するやりきれない胸中を夕霧に訴える。折しも遠くから砧の音が聞こえ、中国・蘇武の故事を思い出す。里に留め置かれた妻子が、夜寒の寝覚めを思いやり、夫に向けて高楼から砧を打つと、その音が遥か彼方の夫に届いたという。永い秋の夜を遣り過ごすのに、心を慰めようと夕霧も一緒になって砧を打つ。
そこへ都から「今年も帰れぬ」という夫の知らせが届く。妻はついに夫が心変わりしたものと思い、絶望の果て憔悴し病の後、帰らぬ人となってしまう。〈中入り〉
その後、帰郷した夫は死を悲しみ、妻の霊と言葉を交わしたいと回向する。すると恋慕と嫉妬の咎で地獄の苦しみにあい、やつれ果てた妻の霊が現れ、夫の不実を恨み訴える。やがて法華経の効力により霊は成仏される。
王朝文芸や軍記物など正しい典拠を大切にしたといわれる世阿弥にしては珍しく、モデルも不特定であり世俗的な夫と妻の別離を扱っている。多少乱暴な言い方かもしれないが、妻を残して単身赴任で丸3年という話は、なんだか現代社会ではよく耳にする。だからテーマとしても普遍性があるとは言わないまでも、現代でも観るものが能の世界に入りやすいことは確かであり、夫の不実を恨み待ち焦がれる妻の苦悩と悲哀を、能の幽玄を大成した世阿弥が、いかにとらえ表現しようとしたかが、この曲の見どころになる。
この「砧」の妻は、夫の帰りを3年も待てず妄執のあまり地獄に落ちるほど、内に秘めたる愛の激しい女とみることもできる。自分より若く、都で夫のそばで仕える夕霧から、久方ぶりの夫の便りを聞かされるとなれば、戸惑い、嫉妬するのであろう。わが身の辛さをくどくどと夕霧に嘆き、片袖を脱ぎ下げ狂いの如く何かに憑かれたように舞う様からは激しい情念が伝わってくる。
しかし恨みとともに何とか思いを都の夫へ届かせたいと祈り、その夕霧とともに砧を打つ姿は、いかにも能らしく極限まで昇華し抑制された、なんともせつなくやり切れない中世的愛の表出ではないか。「月の色風の気色、影に置く下までも、心凄き折節に、砧の音夜嵐、悲しみの声虫の音、交わりて落つる露涙、ほろほろはらはらと、いづれ砧の音やらん」。秋の長夜、砧を打つ妻と夕霧の二人をこんなにも儚く、美しい詩的世界へと誘う演劇はあるだろうか。
世阿弥の「後世の者にわからないだろう」というのは、激情を内向させていくことで、観る者の心を激しくまた静かに揺さぶる、能の逆説性の神髄が、研鑚を重ねた者をもってこそ伝えることのできるものであるという意味なのかもしれない。
今、梅若靖記氏はこの能の名曲中の名曲に挑む。ともかくも天性の謡の持ち主が「冷えた」と形容されこの能を、どの様に解釈し、美しく舞うか、誠に期待するところである。
95 梅若靖記「能を楽しむ会」
アートクエスト主催により、95 梅若靖記「能を楽しむ会」を行っております。ご参加を希望される方や、詳細についてお知りになりたい方は、直接アートクエストにお問合せ下さい。その際、梅若靖記後援会よりの紹介の旨を先方にお知らせ下さい。
| 第1回 |
7月26日(水)
19:00〜21:00 |
能の音楽について |
アートクエスト(目白) |
| 第2回 |
8月21日(月)
19:00〜21:00 |
能の楽器を体験しましょう! |
アートクエスト(目白) |
| 第3回 |
9月25日(月)
19:00〜21:00 |
能の装束について
(砧の装束から) |
梅若能楽学院会館(東中野) |
| 第4回 |
10月10日(火)
13:00〜16:00 |
公演能「砧」鑑賞 |
梅若能楽学院会館(東中野) |
| 第5回 |
11月29日(水)
19:00〜21:00 |
「砧」を見て
能の中の女性について |
アートクエスト(目白) |
| 第6回 |
12月20日(水)
19:00〜21:00 |
能の中の民間伝承
羽衣説話を通して |
アートクエスト(目白) |
| 第7回 |
未定 |
能面を見る
女性の面について |
梅若能楽学院会館(東中野) |
| 第8回 |
未定 |
能面師の話
面を打つということについて |
アートクエスト(目白) |
| 第9回 |
未定 |
面をつけて舞台を歩く
能の足の運びの体験 |
梅若能楽学院会館(東中野) |
| 第10回 |
未定 |
一年のまとめ |
アートクエスト(目白) |