No.5 1996年

前号でアートクエスト主催による95「能を楽しむ会」をご紹介しましたが、参加者の中から感想を寄せていただきました。
能を楽しむ会事始め
佐藤靖之

 率直に言って「梅若靖記『能を楽しむ会』」の発足は、期待と不安が綯い交ぜになった処女航海であったように思う。心の奥底では納得していることでも、いざ現実のものとして言葉にしたり、かたちを与えて行く過程では不安がことのほか増幅されるものである。
 招魂の世話役をしている舟橋健介さんから、後援会が独立し靖記さんが現代の社会に必要とされる「能」を探求する挑戦をするので、何か良い考えはないかと相談されたのが楽しむ会発足のはじまりであった。
 靖記さんの能を初めて鑑賞したのは遡ること十数年前である。古くからの友人で、本会誌の編集人・沼佐真也子さんがある雑誌の取材で梅若能楽学院を訪れ、能に魅了され周囲を巻き込んで毎月能を観る会を始めたのが、その頃である。舟橋さんとの出会いもその会を通じてのものである。
 5年ほど前から「芸術と技術」を主題として企業のものづくりに関する仕事を始めていたわたしには、現代の諸問題の解決をはかる上で、歴史や哲学あるいは、かって人々は何をどのように考え行動してきたのか、を知らずして何もできないのではないか、と考え始めていたのである。
 だが現代に生きていると、古い言葉を読むことや様式化されたものの意味について理解を深める機会が少なく、特殊な世界と捉えがちである。そのような観点から、能楽師と民俗学と現代人の複眼的視点を持つ靖記さんの登場は、時代の要請に基づいて必然的に用意されたことに思えてならない。
 コーヒーを飲んだ経験のない人に、その味を言葉で伝えることの困難なことを思えば、実際の能の生な体験を通じて身体性を回復することで、特殊な世界の普遍化が自分のなかで可能になるはずである。
 靖記さんのモデレートによる参加者相互の触発が、新たな能の役割を発見するのではないかとますます期待が膨らむのである。

様式について
山本俊介

 
「能面にならない。」、シテの面をスケッチしていた私は心の中でそう叫んだ。毎週クロッキーをやっているので能舞台の動きを写し取るのはそう難しくなかろうと思っていた。ところが「面」がどうしてもリアルな顔になってしまう。それは私の脳に記録されている「人の顔」に対する情報が働いて、能面の絵にならないのだ。その日は、思い切りよくあきらめて囃子方を描くこととし、こちらはそれなりの出来映えに仕上がった。
 能の面を観ると、現実の女性の顔とは違い極めて様式化されている。額が広いのが特徴である。一方、歌舞伎の女形のそれは狭く、日本の代表的古典芸能における女性像が、これほど違った様式を持つに至った経緯はどうなのか興味の尽きないところだ。
 絵の話に戻るのだが、私が歌舞伎の女形をスケッチしても恐らく能面の場合と同じような問題が起こるような気がする。そのことは、私が現代女性の顔というパターン化された情報に知らず知らずの間に支配されているからだ。様式が完成されたものほど、それをないがしろにすることは出来ない。様式は個人の恣意による変更が許されぬと言ってもよい。昔の美術学校では、名画の模写や様式建築の勉強を徹底的にやらされたものだ。様式は正しく学び、しっかりと比例感覚を身につけた上で、制作に当たっては囚われない自分独自の世界を創って行くものだと考えている。
 能面の様式について触れたが、能を鑑賞するためには知っていなければならない数多くの様式や約束事がある。「能を楽しむ会」では、舞台、衣裳、演目、能の表現、能の音楽等について靖記氏のレクチャーと対話の機会を持ってきた。一昨年の7月以来のことだ。そこでは、各種の様式がその内容を解説されるに止まらず、セミナーのように、能面が世界の仮面劇の中でどう位置づけられるかとか、文化人類学的考察まで広がるなど知的刺激に富んだ対話を楽しんでいる。

夏の森林で"羽衣"を観て

竹原美恵

夏。
 奥志賀のある木造の音楽堂。高い天井近くの窓から、暮れてゆく前の金色の陽射しがさし込んで来る中。人々はてんでに木の床に直に座り込んで、おしゃべりをし、後から来る人のために前へ前へと移動し、詰め込まれて行く。その賑やかさは、草原でピクニックをしているような陽気さ。子供から年配の人と年齢も色々なら、人々の様子も多彩――他の国の人、観光客、お洒落な別荘族、山登りの格好の―などなど。
 やがて、衣裳の着付けの解説入り実演があり、始まったのは"羽衣"。橋懸りの欄干の松は、白樺の緑に変えられ、その枝先にフワリと羽衣が懸けられている。その話は子供だって知っているから、左手奥の幕が静かにあき、天女が遠い所から忽然と現れたような表情をみせて歩いて来るのを見つめ、ゆるゆると舞い、そして彼方に消えてゆくまで、その謎めいた美しさにひたすら酔っていればいいのだ。そして我に返ると、そこには人々の体温があり、息づかいがあり、ホッとして外に出て行く。ところが、外はすっかり夜になっていて、一面の霧に覆われていた。という体験をしたことがある。数時間で、現世とうつつを行ったり来たりしたのだが、しかしとても自然な感覚だった。その会は、"森林能"というキャッチフレーズが付けられていた。同じ経験を、能楽堂というコンクリートの中の舞台を通してだと、どうだろう。我々は背筋を伸ばして椅子に括りつけられ、ピーンと張り詰めた舞台からのメッセージを、あらゆる想像力を駆使して受け止めなければならない。その為、演能が終わると疲れ切ってしまうか、途中で投げ出して眠ってしまうかだ。そうした、誰もが感じている能の堅苦しさを、裏話を交えながら、様々な角度から説明し、興味をもたせてくれる梅若靖記さんの会の存在を知ったのが、先の森林能から1年後。コーディネーターはアートクエストの佐藤さん・門田さんで、実にセンスのある会合なので、興味をもたれた方の参加を是非おすすめする。
 能は閉ざされた劇場で真剣に対峙するのも良いし、またもっと開かれた空間――各地の薪能・寺社での能・海辺での能――での能にも興味がある。一度観たいのは、修善寺にある水に浮かんだ流政之氏の石舞台での能と厳島神社での能。そしてどの能を観るにしても最低限の粗筋を知ってから出掛けてゆきたい。さあ、もっと能を観にゆきましょうョ。

能を初めてみる時のガイド

 能は、普通は静かなものと考えられがちですが、多種多様のパターンがあります。今回は、OGATAMA編集局が独断で簡単な表にしてみました。よく上演される現行曲は、約百曲と言われていますが、その中でもポピュラーな物を選んで見ました。

葵の上

主な登場人物 六条御息所の生霊(シテ)、巫女、修行者
中入の有無 演出による
眠さ度
静――→激 ☆☆☆
前シテ 泥顔   後シテ 般若
ストーリー
及び特徴
御車争いを怨み六条御息所は生霊となって葵上に襲いかかるが・・
葵上は実際に登場しない。舞台上に置かれた小袖によって表現される。

安宅

主な登場人物 弁慶(シテ)、義経、富樫
中入の有無
眠さ度
静――→激 ☆☆☆☆
ストーリー
及び特徴
都を追われた義経一行は山伏に身をやつして、安宅の関にて富樫の阻止を受けるが弁慶の活躍によって難を逃れる。
歌舞伎の勧進帳で有名な曲。

井筒

主な登場人物 里女・紀有常女の霊(シテ)、旅僧
中入の有無
眠さ度 ☆☆☆☆
静――→激
前シテ 若女  後シテ 若女
ストーリー
及び特徴
昔、業平と紀有常の娘が仲睦まじく住んでいた今は廃墟の在原寺。娘の霊が業平の形見の冠や直衣を身につけ井戸に陰を映し美しく舞う。

石橋

主な登場人物 樵童・獅子(シテ)、寂昭法師
中入の有無
眠さ度
静――→激 ☆☆☆☆☆
前シテ 童子 後シテ 獅子口
ストーリー
及び特徴
寂昭法師が石橋を渡ろうとしていると樵童が現れ、この石橋は難行苦行の末に漸く渡ることの出来る橋だと告げて去る。すると獅子王が現れ雄壮華麗に舞う。後のみのことも。

俊寛

主な登場人物 俊寛(シテ)、康頼、成経、赦免使
中入の有無
眠さ度 ☆☆
静――→激 ☆☆
俊寛
ストーリー
及び特徴
鬼界島に流謫の身となった3人。大赦のため康頼と成経を赦免使が迎えに来る。自分の名がない赦免状を見た俊寛は絶望のまま一人島に残される。

隅田川

主な登場人物 梅若丸の母(シテ)、渡守、旅人
中入の有無
眠さ度 ☆☆☆☆
静――→激 ☆☆
深井
ストーリー
及び特徴
人商人にさらわれた子供を探して母は京より隅田川へと下って来る。大念仏のため対岸に渡る船に乗せてもらった母を待っていたのは愛児の墓であった。

高砂

主な登場人物 老翁・住吉明神(シテ)、老嫗、神主、従者
中入の有無
眠さ度 ☆☆☆☆
静――→激 ☆☆☆
前シテ 小牛尉   後シテ 邯鄲男
ストーリー
及び特徴
松の木陰を掃き清めている老夫婦が高砂・住吉相生の松のいわれを説明して小船に乗って去っていく。住吉明神のご本体が現れ清らかな舞を舞う。

土蜘

主な登場人物 怪僧・土蜘の精(シテ)、頼光、胡蝶、太刀持、独武者
中入の有無
眠さ度
静――→激 ☆☆☆☆
前シテ 無   後シテ 邯鄲男
ストーリー
及び特徴
病床の頼光のもとへ怪僧が現れ蜘の糸を投げかける。頼光が刀で切りつけるが怪僧は消えてしまう。血痕をたよりに追っていくと葛城山の土蜘の精が現れ・・・

道成寺

主な登場人物 白拍子・鬼女(シテ)、道成寺住僧
中入の有無
眠さ度 ☆☆
静――→激 ☆☆☆☆
前シテ 若女   後シテ 般若
ストーリー
及び特徴
鐘の供養の日、女人禁制の紀州道成寺の庭に白拍子が現れ、拝観を乞い舞(乱拍子)を舞いつつ鐘の中に消え、鐘が落ちる。鐘を上げて見ると・・・


主な登場人物 汐汲翁・源融の霊(シテ)、旅僧
中入の有無
眠さ度 ☆☆☆
静――→激 ☆☆
前シテ 笑尉   後シテ 中尉
ストーリー
及び特徴
汐汲翁が汐の焼煙を愛した風流大臣源融の一生を語り姿を消す。その夜、栄華を極めた景色がよみがえり融大臣の霊が現れ舞を舞う。

copyright(c) UMEWAKA Yasunori.All rights reserved.