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No.7,8 (合併号) 1997年
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「道成寺について」
羽田 昶 「道成寺」には諸役とも「何々の習」とか「何々の伝」といった口伝、秘伝が満ち満ちている。演者にとっては徹頭徹尾技術本意の、試練の能である。その分、観客にとっては終始息をもつがせぬ面白づくめの、見どころ、聴きどころに満ちた能である。「珍しきが花」という点でいえば、初めから終わりまで珍しさづくめで、その面白さは、何回見ても汲み尽くすことはできない。 まず鐘の作り物が運び出され天井に吊り上げられ、舞台に重々しく不気味な空気が支配するところから、この能が始まる。 ワキの名ノリ、アイの触レ、前シテの登場・・・・・何もかも緊迫感があって耳目を集めるが、眼目は乱拍子である。 烏帽子をつけた白拍子、舞姫は、鐘を恨むように見すえやがて静寂で異様な舞、乱拍子を舞う。シテと小鼓の一騎打ちである。小鼓の、緊張感みなぎる長い休止をおいての演奏と鋭い掛け声。それに絡んでシテは爪先やかかとを上げ下げし、足拍子を踏んで段をとる。三角形に舞台を一巡し、正面に向き直ったところを中ノ段と称し、「道成の卿、承り」と一句一句きれぎれに謡いながら、なおも乱拍子を舞い続ける。――――シテと小鼓は、おのおの心の中で計り合う間の一致をねらう。内に籠もる気迫の激しさはなみなみのものではない。乱拍子はもともと白拍子の舞で、序の舞や神楽のような数え踏みの舞だったのが、金春禅鳳の子の宗端あたりから、つまり室町の末期から現在見るような気合の入ったものに仕立て上げられたという。もちろんいまでは、この、情念の煮詰まった不気味な乱拍子でなくては「道成寺」の能を考えることはできない。 乱拍子とは対照的に堰をきった奔流のような急之舞の絢爛たる型もさることながら、圧巻は鐘入りである。鐘を見込んで、烏帽子をはらい、鐘の下で足拍子を踏んで飛び上がる。その瞬間、鐘が落下する。冒険であり離れ業である。 初世梅若万三郎は、芸談『亀堂閑話』に言う。「よく人様は『観世のは鐘の下に行って手をかけて飛ぶのだから、鐘引きさへうまければ大丈夫だ』と申されますが、勿論うまく入ればいゝのでございますが、往々この入る折の気組をお考へにならないために、さういふお説も出るのでございます。『鐘に入る所をもう一遍やつて見よう』と思へば、乱拍子からやつて来て、急之舞に進んでそれから勢ひよく入るのでございますから、只入ればよいといふので鐘に入る所だけをやらうとしても出来るものではありません。よし入つても、それはその人が入つただけで『道成寺』の鐘入りではございません。つまり観世の鐘入りは決して楽ではないといふ事を申し上げておきたいのでございます。」。――― 鐘の落下に狼狽するアイ、寺男のコミックなやりとりを経て、住僧は鐘の異変にまつわる恐ろしい伝説を物語る。ワキの語りの聴きどころだが、シテはこの間、暗く狭い鐘の中、ひとりで変身をとげる。ここの手順にもこの曲特有の習いがあると聞く。 後場は、ワキとの抗争を〈祈り〉の囃子事を表す。鐘入りまでの間にいかに精魂を使い果たそうとも〈祈り〉はたっぷりと、じっくりと、凄みをきかせて演じなければならない。〈鱗落シ〉〈柱巻キ〉の型どころ、恐ろしい中にも悲しい女の表情がよぎる般若の面の効果も見逃せない。 古典芸能ならばどのジャンルでもそうだろうが、とくに能・狂言の世界では、それを演ずることによって成長の証を示すことになるような演目が節目に節目に用意されている。何々の曲を「披く」という表現が、その辺りの事情を端的に言い当てている。「披く」には、単に「初演する」以上の重みが付与されている。 能楽師の家に生まれた子が、青年期に経験する試練が、この「道成寺」を披くことである。逆に言えば「道成寺」を披いて一人前になる。 ところで、披きならぬ再演、三演の「道成寺」になると、どういう位置づけを示すのだろうか。思うに、青年期の披きの「道成寺」は、無我夢中に若さと力とエネルギーで見せるものだろう。しかし、ある年月を経て演ずる時には、その若さと力とエネルギーが、余裕をもって発揮され得るのではないか。狂言の「釣狐」などもそうだろうが、時々はその技術の試練に立ち戻って自己検証の場となるような曲、それが「道成寺」ではないだろうか。そして、技術的試練の、その向こうにある「道成寺」のドラマ、女の情念をもって表現することができるかどうかということになると、これはもう青年期の披きでは無理で、これこそは繰り返し上演して塗りあげてゆくものだろう。 第5回招魂 道成寺について梅若靖記が語る 聞き手:沼佐真也子 公演会にて「道成寺」をなさる抱負などをお聞かせ下さい。 私は、一回目を若い頃にやらせていただきました。1983年で、26才の時でした。その後年月もたちましたし、体が動くうちにもう一度舞っておきたいということと、私のお弟子さん達や知り合いの方が、私の「道成寺」を見ていない方が多くなりました。そこで是非見てみたいというお話があったり、ちょうど40代になったこともあり現在41才ですが、当時ほど体は動かないと思いますが、 26才の時のお披きと今回では全然違うものではないのでしょうか。 我々の中で道成寺は一つに登竜門のような形に成っていて、学校の試験のようなところがあります。ほかの曲で間違えてもあまり噂になりませんが、道成寺で失敗すると皆さんに知れ渡ってしまう。そのためどういうふうに舞ったということよりも、1回目の時は非常に緊張したという記憶しかないのです。今回もかなり緊張するとは思いますが、2回目ということで多少違ってくるでしょうから、道成寺の内容を考えながら舞うことができればいいと思っています。 物語は安珍清姫の悲恋の話ですが、単なる嫉妬に燃えて、蛇に成っても追いかけたというだけでなくもっと内面的なものがあるのではないかと考えています。最初は幼い恋で、おにいちゃんのような立場の安珍に、恋心を抱きその気になってしまう。清姫にとっては、非常に純粋な愛だったと思うんですが、安珍のほうがびっくりしてしまう。その中の純粋な面や、ただ追い掛けていく怖いということではなく、たとえば蛇になって鐘に巻きついて燃やしてしまうということに成っていますが、相手には迷惑だったかもしれませんがそれが嫉妬とか怨みということでなく、逆に愛の炎だったかもしれないと思います。ですからもっと多面的にとらえていきたいと思っています。最初に舞ったときには物語どおりに鬼になるのに精一杯でしたけれど。私も初演当時よりは人間を少し長くやっていますので、一片から見た表現ではなくもっと複雑なものが、表現できればと思っています。般若の面というのは、ただ怖いだけでなくよく見ると怒っている顔ではなく悲しい顔をしています。そのような悲しさを含んだ上で、いろいろな気持ちがあり怨みだけでなく、もちろん怨みもありますが単純なものではないという気がしています。深みを感じさせることのできる道成寺ができたら良いと思っています。まあ、言うのは簡単ですが・・・ そのあたりが26才の時と今とは違う点ではないのでしょうか。 違う点というよりも、うまくいけば自然に若い時の道成寺とは違ってくると思います。26才の時は人生経験もあまりなく、かといって今でもありませんが。若いときには割と一方向のところからしかものをとらえることができなかったと思います。それは26才の時点では1つの正解だと思います。別に間違っていたとは思っていません。今回は41才なりの道成寺ができればと思っています。それは頭で考えている理屈ではなくて、その人間が通ってきた道筋の中で得られた人生経験が現れるものだと思っています。そういう意味では26才の時よりも、もう少し多面的なものが表現できるのではないかと思います。心理的深みのあるものができればいいと思っています。後は、落ちた体力をどうやってカバーするかということが問題です。これから少し体を鍛えなくてはいけないと思っています。少しずつ体を動かそうと思っています。 ストーリーは単純でしたね。その点でむしろ多面的な解釈というのが、どれだけいられるかによって違うでしょうね。 解釈をしたからといって、方法を変えることではないのです。見てわかる方法を賛美する風潮があるように思います。そうではなくて、精神的なもののもちようで変化させることによってどういうふうに表現が変わって来るか。内面から出て来るものを大事にしたいと思っています。なかなか言うのはやさしいのですが、それができるかできないかはちょっとわからないですがそれをしようとする努力をするということが、一つ大事なことだと思っています。 すぐ見てわかることは、誰が見てもわかるということですよね。そうではなく見る人が見るとわかるということが本当の違いではないでしょうか。 難しいところだと思います。誰が見てもわかることが本当は良いと思います。誰でもがわかるし、見る人が見るともっと深くわかるという形が理想だと思います。 誰でもわかるようにとこちらが、やり方を変えてしまうと違ったものができてしまうと思います。ですから、変化をさせるのではなくてわかるのが一番良いと思います。自然にそうなることが望ましいと考えています。 道成寺という曲は一生で何回舞うかわかりませんが、自分の人生の節目節目になる曲だと思います。この後もう1回ぐらいするかもしれませんが。 曲の構成がひじょうによくできています。技術的にそんなに難しい曲ではないのですが、ただしきちんと行わないと失敗する曲でもあります。能というのは、いろいろな約束事があるのですが、そういうことを簡単に考えて、しっかりと行わないと失敗をしてしまう。よく2回目に舞う人が間違える人が多いといいます。1回目の時はだいたいみんな緊張して舞うので、まちがえないのですが、私も今回2回目なので、心してかからなくてはいけません。単純なミスが大きなミスにつながる。例えば、鐘に入るときにちょっとした目測を慌てて誤ってしまったりすると、鐘のないところで鐘に入る型をしてしまったり、取った烏帽子をふんでしまう。烏帽子の飛ばし方1つにしても決まりがあるのですが、そのようなことを1つずつ守って舞うことにより、しっかり舞える曲です。 鐘の重さはどのくらいあるのですか。 全部いれて200キロぐらいではないかと推測しています。 竹でできているのですが、落としたときにバウンドしないために鐘の縁に鉛が入っています。 上から落しますが、足の上に落ちてきたら大けがを負います。 鐘入りの極意などあるのですか。 一番きれいに入るのは、中に吸い込まれるように入るのがきれいな入り方です。入る時に足を折り曲げて高く飛んだようにみせるのですが、鐘が落ちるタイミングと合い過ぎてしまうとさきに人間が落ちてしまう。ですから少し人間が飛ぶのが遅れるのがいい。ということは落ちて来る鐘に頭をぶつけるくらいがちょうどいいというわけです。ちょっと頭がぶつかって、鼻の当たりにきな臭い感じがしている時が一番きれいに見える。そうすると鐘の中に消えたように見える。そのタイミングが狂うと、頭を強くぶつけてしまい、脊椎を傷つけてしまったり、むちうち症になったりした人もいます。 命がけですね。 皆さんで無事に終わることを祈っていてください。それがまず何よりですから。 最後に見所を教えてください。 なんと言っても乱拍子が見所だと思います。小鼓の掛け声にあわせて特殊な足使いをします。蛇が石段を上っているところを表現しているというのですが。同じパターンの繰り返しなのですが、だんだんに昂揚していきます。その後に急々之舞いという非常に激しい舞があります。そしていよいよ鐘入りになります。これは実際200キロ近くある鐘が、頭の上から落ちてきますので、迫力があると思います。後半は鐘の中で衣装を変え般若面をつけて鬼の姿になって出てきます。どういう衣装になるかは楽しみにしていてください。後半の見所は祈り働きという特殊な動きがあります。祈り伏せようとするワキの僧に襲いかかるのですが、面の使い方に特徴があります。時には恐ろしい鬼の顔、また悲し気な顔に面が見えると思いますので、その点も楽しみにご覧ください。 楽しみに拝見することにいたします。それではご成功をお祈りしております。 6月のヨーロッパ公演についての報告 聞き手:沼佐真也子 ここでパリとアムステルダムの話を聞かせてください。 今回の公演をするというきっかけは、今年で16回目になる日比谷シテイ夜能を前から海外へもって行きたいという話がありました。候補としてニューヨーク等がありましたが、一番文化的に理解してもらえるであろうフランス・パリが良いだろうということにまとまりました。しかも立地的に日比谷シテイのような近代ビルの中で公演を行いたいと考えました。日比谷シテイ夜能は産経新聞社さんの主催で行われてきたわけですけれども、フジサンケイグループと国立ポンピドゥーセンターは今までの美術展などを通して友好関係にあります。そんな関係で産経さんからポンピドゥーに話をしたところ、ポンピドゥー側から今年が開設20周年に当たり、それを記念して能公演を是非行ってほしいと話がまとまりました。ポンピドゥーと財団法人梅若会が主催をして産経新聞社が協力をするという形で話が起きました。約2年位前のことだと記憶しています。実質的に動き出したのは去年の春ぐらいからでした。 ヨーロッパ公演という構想を靖記さんは、ずっとお持ちでしたよね。前にも触れましたが、今回初めてお読みになる方もいらっしゃると思いますので、ヨーロッパでという構想を実現させたという点と、ヨーロッパと芸術の関係について少しお話ください。 日本だと生活と芸術が非常にかけ離れているのですが、ヨーロッパの社会は、生活の中に芸術が溶け込んでいるというか、あたりまえに存在している。日本ですと演劇を見に行く、芸術を見に行くということは、非日常なのですけれど、ヨーロッパは、それが日常なんですね。そうした環境の中で「能」を公演してみたいと思いました。今までも何回も能公演はヨーロッパで行われてきましたが近年小規模で安易な催しが結構多くなっているように思われます。そこで、ちゃんとフルメンバーで行うような公演を、持っていきたい。そして本物を見て戴きたいと考えました。私もヨーロッパのいろいろな文化であるバレエや、最近はあまり聞けませんがクラシック音楽も小さいときから好きでした。そうした高い文化を持ったヨーロッパでは、日本の芸術である能も理解してもらえるだろうと思いました。 今回、梅若会全体として海外公演を行ったといういわば引っ越し公演ということで、そのあたりの大変さや、良かった面、意味についてお話ください。 大概ヨーロッパ公演も含む海外公演といいますと人数を絞って、わりといろいろな所の人と共同で、行う場合が多いのです。父恭行や、六郎をはじめ、私も何回か海外公演を行っておりますが、いろいろな会のところの人と混合でメンバーを組んでいく場合があったり、あるいは梅若会以外のところから客員で呼ばれていくということがほとんどでした。今回は梅若会という母体で行いました。また囃子方や、狂言方、ワキ方も、日頃梅若会とよく一緒に仕事をしている人たちに依頼しました。また演者だけでなく今回は、舞台監督として独立したばかりの旅川を連れて行きました。その他に過去のベルギー公演の時にお手伝い下さった児玉さんにも参加していただいて、いわゆるスタッフも連れて行きました。海外公演というのは、もめごとがよく起きるのですが、今回は一回もそういうこともありませんでした。やはり舞台の上にそういうことが(チームワークのようなことが)出てきてしまうので、そういう意味では良かったと思います。非常に良い団結があり、また和気あいあいとしていました。 スタッフの役割についてお話ください。産経新聞社さんはどのような協力をしてくださったのでしょうか。 前にも申し上げましたが、ポンピドゥーとの交渉をはじめ、舞台製作会社などのフランス側との交渉をしてくださいました。日本で行うのとは違って、いろいろとご苦労があったようです。また公演当日の会場運営をしてくださいました。その他事務的なこともお手伝いくださいました。 今回旅川さんが舞台監督として参加なさったそうですが。 梅若会のステージディレクターとして参加してもらいました。今までは我々シテ方が、自ら行ったりあるいは全然違う人、イベント屋さんみたいな人が行ったりしていたのですが、我々との意志がうまく伝わらないということがよくありました。今回は、梅若会で長年そういった仕事をしてくれた旅川君が担当してくれたお陰で、照明・音響・舞台等に不都合があった時にも、我々出演者の要求を的確に現地スタッフに伝え対処してくれました。出演者は舞台に専念することができました。またベルギー公演の折ご一緒した児玉さんには、今回マネージャーとして参加してもらい、いろいろなことを総合的にサポートして戴きました。 靖記さんはどういう立場でいらっしゃたのでしょうか。 梅若会のプロデューサーとして、企画から資金集め、先方との交渉を行いました。 それは大変でしたね。これまでの経緯をお話ください。 フランス公演に関しては、産経新聞社さんが全面的にお手伝いくださっていました。最初にポンピドゥー開館20周年ということでフランス公演が立ち上がりました。それと共に今年が「フランスにおける日本年」という国と国との文化交流の年にちょうどなりました。補足ですが来年が「日本におけるフランス年」となっています。日本の外務省からは、日本年の催しであるという名義を頂戴致しました。日本年ということでスポンサーとして、日本財団が全面的にバックアップしてくださいました。日本財団の自主公演ではないにもかかわらず、自主公演に近い形で全面的に応援して戴きました。また国際交流基金も大幅に協力してくださいました。その他のスポンサーで、たとえば全日空さんには、チケットをディスカウントしてくださいました上に、協賛金も出して戴きました。他にはジュンアシダ・資生堂・キッコーマンにご援助戴きました。日本の外務省にもいろいろな形でお手伝いいただき在フランス日本大使館やフランスの文化省また、大統領府からは、「パトルナージュ」という大統領が推薦する催しであるというお墨付きも頂戴いたしました。なかなか戴けないものらしいのですが、ポンピドゥーセンターが国立の機関であったためか、そういったものも出して戴きました。在日フランス大使館も非常に協力的でした。フランス公演の準備を進めていく中で、せっかくヨーロッパまで行くのに、もう一箇所ぐらい公演をしないともったいないということになりました。そこで、私が知り合いの方よりオランダ大使館の文化担当ヤンスンさんをご紹介戴きました。 オランダ公演に関しましては、話がトントン拍子に進みました。ちょうどホーランドフェスティバルのディレクターを日本にわざわざ呼んでくれました。去年の私の公演会と前日の角当さんの公演をみてくれました。その前後2日間に協議して、オランダ公演を行うようにしましょうといったことになりました。昨年の11月のことです。その後フランス公演の準備のためもあり、12月にオランダに私が参りました。その折に、オランダ大使館からの紹介もあり、在蘭日本商工会議所の方にお会い致しました。たまたま商工会議所の幹事の会頭会社である三菱商事の社長さまが、六郎夫人の学生時代の友人でした。そこで全面的に協力して戴けるというお話を戴きました。商工会議所の働きかけにより、在蘭ヤクルト・在蘭富士フィルムのご協力を賜りました。オランダ公演に関しては、その他に日本の本田技研工業のご協賛、またホテルオークラアムステルダムのご協力と日本万国博覧会記念協会の助成がありました。キッコーマン・全日空・国際交流基金は、仏蘭共ですが。 オランダ公演は準備が短かったのですが、ホーランドフェスティバルのディレクターが非常に熱心であったこともあり、たいへんだったのですが話がスムーズに進みました。後から数えてみるとFAXのやり取りは、100枚以上になっていました。 また後からわかったことですが、ホーランドフェスティバルは今年50周年でしたが、ディレクターが調べてみると、30年位前に先代の六郎と父(恭行)が参加していました。ですから、2代にわたって参加したことになります。縁があったということだと思います。大変組織がしっかりしていましたので、公演もやりやすい環境でした。在オランダ大使館も、積極的に協力して下さいました。 いよいよ公演のお話をお聞かせください。オランダ公演の前にベルギーに行かれましたが、そのことをお話ください。 ベルギーに欧州連合(EU)大使の時野谷大使がいらっしゃいまして、大使の奥様よりのご依頼によるものでした。ベルギーの文化人および日本企業の奥様方で、文化交流のための夫人会をかなり前よりなさっています。そこで能を取り上げたいというメンバーの希望があったのですが、なかなか能を行うには、難しかったそうです。今回私たちがヨーロッパに行くというお話を聞かれて、大使より是非にということとなり私と角当直隆が参りました。そこでEU大使公邸でレクチャーと舞囃子を行いました。レクチャーの中では、装束付けを見て戴きました。大変、皆さんに喜んで戴いて、終了後の質疑応答があったのですが、皆さん大変良く勉強してこられていて、有意義な質疑応答となりました。大きな公演も意味があることなのですが、互いにふれあいがあるこういった小規模の催し(60〜70人位)も、非常に価値のあることだと痛感いたしました。また、一等書記官の方が私についてくださいまして、大変歓待して下さり大臣になったような待遇を経験して参りました。古いお屋敷の大使公邸にも泊めて戴きました。大使ご夫妻も大変アットホームな方々で、すばらしい体験をして参りました。大変有意義なベルギー滞在でした。 その後にオランダ公演となるわけですね。 オランダ公演には、スタッフも含めて23名で参加しました。会場は、通称トロピカルミュージアムというところで行いました。オランダは、かつて造船の国でしたので、建物の下は石なのですが、天井は木組みで船型天井でしたので、非常に音響的に能楽堂に近いものが得られました。海外というのは気候が大変乾燥していたり建物の状況も日本と違いますので、なかなかうまくいかないのですが、鼓や太鼓の音や、我々の謡の声もよく通りました。約450名くらいのホールでした。実は会場を決める基準を、私とホーランドフェスティバルのディレクターで、(フレイメン氏は音楽家なのですが)残響音が1.5秒ぐらいという話をしていました。12月に訪蘭した時に2候補の中からマイクを使わないですむ会場というので、こちらを選択しました。楽屋が少し狭かったのですが、よい環境で公演できました。しかも5月の下旬に渡蘭した時には、4公演すべての公演のチケットが売り切れに近い状態でした。その際に公演を増やしてほしいという要望があったのですが、すでに他の日程が決まっていてできませんでした。我々がファミリーシートとして、確保してあった席も必要がないときには、返してほしいとのことで大盛況でした。ディレクターのフレイメン氏は、今回がフェスティバルに携わるのが最後だったので大変喜んで感激してくれました。オランダとは、過去に日本といろいろなことがあった国でしたので心配しましたが、そのようなこともなく観客の方も大変喜んでくださいました。オランダ公演が成功した一つには、演目の前にライデン大学の日本研究家のポーターさんにレクチャーをして戴きました。ただお話だけのレクチャーですと理解されにくいので、私が一緒に舞台に立って、仕舞の構えをしたり、能のリズムについてという話をやり取りしながら、日本語で話しながらオランダ語に訳してもらいました。それが成功したようで皆さんよく理解をしてくださり、狂言の笑うところでは、笑っていました。また能は、食い入るようにみていました。オランダのかたは、静かな拍手をなさいます。その後酔っているような感じで帰っていくという感じがしました。ドイツの方とも違う反応で、もちろん日本の観客の方々とも違う反応で印象的でした。オランダでは、ホテルオークラに宿泊しましたが、日系のホテルでしたので日本人従業員もおり、ひじょうにリラックスできました。 パリでの公演はいかがでしたか。 異常気象で、天候が非常に悪く寒い日々が多く雨ばっかりでした。3日間の公演の2日間雨だったのですが、幸いなことに能が始まるころになると雨が止んでくれました。最後の3日目の私が舞った日だけ良いお天気でした。(私の普段の行いが良かったせいだと思っています。)1日目はほとんど招待客で、日本大使館の関係の方などいろいろな方が来て下さいました。公演終了後にレセプションが、ポンピドゥーセンターの中でありました。父の「景清」だったのですが、感激されて父の所へ握手を求めに来た方が何人もあったそうです。2日目が六郎の「砧」でした。「砧」という曲は非常に難しい曲で、果たしてこの曲がフランス人にどの程度理解されるかということが心配だったのですが、つまらないと平気で帰ってしまうと聞いていました。ある公演で、実際に帰ってしまったということも聞いておりました。この日は小雨が降ったり止んだりで、時々パラパラと降って来るような状態で、我々が用意した黒いポンチョを全員に着ていただいて観能していただきました。そんな状態でもほとんど帰る人もいませんでした。一番この曲が我々が期待をして持っていった曲でもあり、心配していた曲でもありました。過去に観世久夫氏がフランスで上演して大変好評を得たことがありましたが、それ以来の上演だと思います。言葉がわからなくても演劇を見る感覚的なものを養われている感じがしました。多分能を初めてみるという人は、少なかったと思います。今回私がこの公演に携わって、多くの人とお会いしましたが、外国の方で能をみたことがないという人には、一人も会いませんでした。残念ながら日本の方は、見たことがない方が大半でした。ヨーロッパの人は日本人以上に見ているかもしれません。外国の方は見たことがないということは恥ずかしいということという認識がありますが、日本人にはそういう感覚が不足しているように思います。 3日目は私が「清経」の音取で(小書き 恋之音取)、非常に特殊な笛の部分があり、音楽的に特徴があるものです。笛に合わせあまり動きがなく長くじっとしているので、退屈されてしまうのではないかと思っていました。そんなことはまったくなく、のり出して見ていました。当初3日目のチケットがあまり売れていなかったのですが、2日目の評判を聞いてたくさんの方が来て最終的に入れない人ができてしまいました。結局外から最後まで見ていた人も多くいましたね。屋外ですから、道路や階段などから見えるので、そこから観能していました。日本人の場合は、10分〜15分ぐらいで帰ってしまうのですが、最初から最後までほとんどの人が見ていました。100人ぐらいはいたのではないかと思います。フランスでは評判を聞いてから、チケットを購入するようです。前売りというのは、なかなか売れないらしいということです。できればもう2日位公演を行うと、もっと話題になったのではないかと思います。でも、今回ぐらいで止めておくのも良いのかもしれません? 舞台はどのようにされたのですか。 ベルギーは、大使公邸内のホールで行いました。 オランダは、ホーランドフェスティバル側の舞台製作に前もって図面を送って、その後打合せを重ねて決定しました。ステージの前に少し張出しを作って、橋掛かりはわきの空間に作りました。床にはリノリウムをはりました。基本的に大きな造作は、現地スタッフがしてくれましたが、細かい点は旅川が担当しました。 ハプニングは、橋掛かりに松を立てようとしていたら、手違いでメープルがきてしまったことです。松は無しとなりました。現地のスタッフと旅川ともに和気あいあいで舞台製作をしていましたが、最後は間にあわないので私も加わって製作しました。非常に良いスタッフに恵まれました。フランスの舞台製作はポンピドゥーでよく仕事をしているシャンジュマンアビューという会社が行いました。多少費用は高かったのですが、この会社は、大きなファッションショーなども手がけているので、技術力は非常に高いものがありました。契約以外の仕事は、絶対にしないと聞いていたのですが、実際現場の人たちは丁寧に対応してくれました。照明なども1日目の公演終了後に変更があったのですが、対応してくれないかなとも思いましたが、すぐに対応してくれて、そのうえに照明の担当者が機材を増やすというような物理的なこと以外、できる限りのことはするのでいつでもいってくれということを、わざわざ私に伝えてきました。また、旅川が現地のスタッフと非常に仲良くなって、彼らが徹夜で仕事をすれば、彼も一緒に仕事をしましたので、非常にうまく行きました。 屋外でしたので一番雨の心配があり、舞台上に屋根をかけるということになりました。屋根といってもテントのようなカッコウの悪いものができてしまうのかと心配していましたら、白いきれいな大変スマートなものを作成してくれました。ただし、テロの発生などもあるせいかセキュリティーに関して警察の権力が大変に強くて、難題となりました。例えばポンピドゥーの前広場に舞台と観客席を作ったわけですが、その回りの壁を風速何メートルの風がきても倒れないような頑強な物にしなくてはいけないとか、客席を一つ一つ床にボルトで固定しなければいけないとか。日本では考えられないようなことを要求されました。他には舞台製作の作業を間際に1日遅らせろといわれたり。予定外の支出が増えてしまいました。それに、警察のセキュリティに関する指導に対することに訴訟権がないので、どうしようもないのですが。この件では日本大使館が日仏会館のオープンの際にもずいぶん損害を被ったそうです。 毎年時期を決めて公演するのも良いのかもしれませんね。 今回公演を行って見て、フランスの場合は劇場で公演を行うべきだと思いました。何故なら各劇場がチケットを売るシステムを持っています。劇場が顧客をもっていて、例えば顧客に来年の予定を知らせて、相撲の桝席のように顧客が席を買ったり、定例のようなものは年間で契約したりするようなシステムになっています。ですから日本のようにチケットセンターのようなところで、券売するのは非常に難しいと思います。 ポンピドゥーセンターも顧客を持っていますが、どちらかといえば近代的な絵画等に興味がある人たちがほとんどですので、今回の能公演に興味を示したかどうかは疑問です。 オランダの場合は、ホーランドフェスティバルが、顧客を持っているので、今回売り切れになったと思います。 産経新聞が公演前にずいぶん情報を流したこともあると思いますが、本当に興味がありチケットセンターに行ってチケットを買って下さった人たちばかりですので、そう言った点を考慮すると良く入ったと思います。 もっと組織的な売り方をした方が、さらに評判や話題になったと思うのですが。 最後に何を感じられましたか。 観客の方々にオランダとフランス両国共にたいへん喜んでいただきましたことは大きな成果だと思っています。これだけの公演を海外で行うには、かなり経費が多額になりました。日本財団をはじめスポンサーの方々が非常に理解を示していただいて、皆さん快く協力してくださいました。フランス公演は、日本から行った人数は35名でその他に現地スタッフなどを入れると多くの人間が関わっていました、また、外務省をはじめ在日のフランス・オランダ大使館と在フランス・オランダ日本大使館、EUのレクチャーではEU大使館が、全面的にバックアップしてくださいました。我々は心強く行えました。ただ一つ日本の国内の外務省の対応が、少し悪かったように感じました。せっかく外国にいる方々が、頑張っているのに日本での窓口であるところが対応が悪いのは良くないと思いました。また今回の公演の顧問をお引受け下さった安倍洋子様(故安倍晋太郎夫人)にもいろいろご相談にのっていただき、安倍晋三議員がたいへん力になってくださいました。 今後海外公演をなさるお気持ちはありますか。 今回の経験でいろいろなノウハウはできましたが、たいへんですのでしばらくは充電期間にさせていただきたいと思っています。 お疲れ様でした。 1997年梅若会ヨーロッパ公演 6月19日 ベルギーEU大使公邸にて 舞囃子「羽衣」・講演(装束付等) 21日 アムステルダムTropenMuseumにて レクチャー・「寝音曲」 野村万之丞・「羽衣」 梅若六郎 22日 レクチャー・「仏師」 野村万之丞・「土蜘」 梅若晋矢 レクチャー・「仏師」 野村万之丞・「羽衣」 梅若靖記 23日 レクチャー・「寝音曲」 野村万之丞・「土蜘」 梅若六郎 26日 パリ ポンピドゥー前広場にて 「土蜘」 梅若晋矢・「蝸牛」 野村史高・ 「景清」松門ノアシライ 梅若恭行 27日 「土蜘」 角当行雄・「寝音曲」 野村万之丞・「砧」梓之出 梅若六郎 28日 「土蜘」 平井俊行・「棒縛」 野村万之丞・「清経」恋之音取 梅若靖記 |
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