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No.11 1999年
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特別企画"能楽を楽しもう"
(音楽を楽しむ会「経堂音楽の夕べ」、ある地域での試みの報告) 時は昨年11月下旬、銀杏の落葉が美しい秋の夕暮れ。場所は禅寺の経堂山「福昌寺」。本堂は満員の熱気と引き締まった緊張感に包まれていた。 伽藍に飾られた本堂、その奥の御本尊"釈迦牟尼仏"を背に、紋付袴の重要無形文化財梅若恭行・靖記の親子が着座。そして最初のプログラム「田村」のクセの連吟が、静かに朗々と本堂に響き出した。 これは「能を楽しむ会」と「経堂音楽の夕べ」という二つのグループから生まれた新しい音楽会の試みであり、古い日本の伝統を守ってきている「禅寺」と「能楽」との素晴らしい再会の瞬間であった。 靖記先生は"能"という日本の伝統音楽の世界をもっと判りやすく一般の人に理解してもらおうと、5年ほど前から「能を楽しむ会」というのを主催してこられ、その中で能の歴史、物語の特徴、能面、衣裳、お囃子(能管、大鼓、小鼓、太鼓)等についてばかりでなく音楽としての能(リズム・旋律)そして西洋音楽との違い等、自ら演奏を交えて独自の非常に判りやすい説明をして来られている。 「経堂音楽の夕べ」というのは、小田急線「経堂」に住んでいる西洋音楽同好の中高年の有志が集まって作った会で、その目的は、1)質のよい(西洋)音楽を、2)安い料金で(1500円)、3)経堂の街で(下駄履きで)気安く楽しめたらと17年前に始めたものである。 経堂には、クラシック演奏が出来る適当なホールが無く、福昌寺というお寺の本堂を貸していただく等、全て素人の手作りで音楽会を行ってきているグループである。 今までにいろいろな素晴らしい演奏家の方々に出演して頂いたが、例えば25回目は倉田澄子さんのチェロリサイタルで、そして今回26回目=特別企画="能を楽しもう"として梅若靖記先生に出演して頂くに至った物語が、このご報告である。 「経堂音楽の夕べ」は基本的に西洋音楽をベースにプログラムを組んできているが、ある時仲間の一人が"本当の能の世界も聴いてみたいな"とつぶやいたことから、ことは始まった。 しかし現実問題として、限られた「予算」と「場所」しか持たない素人のグループにとってオペラに相当する"能"を全曲プロデュースすることは不可能であるし、さりとて単に"素謡"と"仕舞"をクラシックファンや能を知らない人に如何に興味を持たせて紹介するとなるとこれは真に難しい。 そこで先ず相談したのが靖記先生。最初は、上記「能を楽しむ会」のように靖記先生の話を中心に笛か鼓を入れた演奏の一部をお願いするのが精一杯かなと考えていた。 しかし靖記先生は"どうせやるなら、そして知らない人に聴いてもらうなら音楽として本物をきちんとやりましょう。予算の関係で出演料がかからないのは、例えば親父に頼むかな?"と言われ、プログラム作りの検討を始められたが、最終的にはお囃子もフルメンバーで出演して下さることになる等、能楽を構成するほとんど全ての組み合わせが判るという真に贅沢な下記の如きプログラムができあがってしまった; 第一部 (1)「連吟」田村 クセ、(2)「独鼓」百万 笹の段、(3)「居囃子」盤渉楽(バンシキガク)、(4)「仕舞」隅田川、(5)「舞囃子」羽衣 和合の舞 第二部 質問とお話 さて途中経過の問題としては、現実に心配ごとは山程あった。心配事とその結果の例をいくつかあげてみると; 1)お寺の問題 お寺側としても初めてであり、本堂という限られた場所しかも畳の上で、果たして正式な能楽が出来るのだろうか? <結果>靖記先生は事前に会場調査され、硬さと広さの視点から畳での演奏を決断された。福昌寺では基本的にこの企画を大変喜ばれ、ご家族全員で準備に協力して下さると共に、当日ご住職は正式な法衣をまとい御本尊の横に正座黙想して静聴されておられたのが印象的であった。 2)お客様の量と質の問題 今までの西洋音楽のお客様が、どれだけ興味を示してどれだけきてくれるだろうか?切符は売れるだろうか?最後に質疑応答の時間を設けたが、質問が出るだろうか? <結果>いつもなら150人程度のところ、断りきれず入れた立ち見も含め200人という大盛況で、しかも若い人がかなり多かったのが嬉しかった。 最後の質疑応答も、若い人も含め次のような実に良い質問が出て、密かに用意しておいた"サクラ"は全く無用であった; (1)なぜ、打楽器中心なのか、(2)囃子はやたら掛け声が多いが何故か、(3)誰の音程に合わすのか、(4)踊り手はどこに重心をおくのか。等など これに対し、靖記先生がユーモアを交えて判りやすく説明されたのは勿論にて、お客様は皆大満足であった。 3)音楽会のタイトルをどうするか?プログラム作り・解説をどうするか?"能を楽しむ"というと能面衣裳付きの能全曲と誤解を招くし、"謡・仕舞・舞囃子"では判らないし面白くないし・・・ <結果>=特別企画="能楽を楽しむ"とし、プログラムには西洋音楽ファンにも判り易い説明を載せるように工夫に努めた; 例えば、"能とは600年前から現代まで続いている日本人が世界に誇れる伝統芸術の一つであり、能は日本のオペラともいえる。" " 「シテ」は主役、「地謡」はコーラス、「囃子」はオーケストラ/伴奏" " 「舞囃子」とは一曲の見所のところをオーケストラとコーラスで舞う。" " 今日はフルオーケストラとコーラスで舞う" " 今日はフルオーケストラでの演奏である"等 その他細かいことは省略するが、結果として全て問題無しの大成功であった。 それはなんといっても演奏がまた素晴らしかったからである。鍛えぬかれたプロの声・音色・リズム・アンサンブル等全ての気持ちと技が溶け合ってある時はぶつかって、熱気溢れる本堂に響き、染み透り、突き抜けていった。そしてお客様は、身近に本物の日本の伝統音楽に接した感激と満足感からか、皆食い入るようにむしろ意外なくらい最後まで集中して聴いていたのが大変印象的であった。 やはり日本人として"能"というものはどうも近づきにくいし判りにくいけれど、一方なんとなく気になり一寸知りたいなという人が沢山いることが今回判った。 そういう意味で、もっともっと靖記先生のような専門家をひっぱり出して、智恵を絞り"本格的なものを気安く判りやすく"理解を広めていく事が必要であり又可能であると痛感した。 最後にいろいろご無理をお願いした靖記先生はじめご出演にご協力頂いた方々、及び恭行・靖記両先生の御奥様方のそれぞれお心遣い気配りに対して心から御礼申し上げます。また当日いろいろお手伝いをして下さった「能を楽しむ会」のメンバーの方々にも厚く御礼申し上げます。 1999年8月 「経堂音楽の夕べ」「能を楽しむ会」清水敬允 対談 梅若靖記氏がどうして能楽師になったか? 聞き手:沼佐真也子 沼佐: 本日は靖記さんが、どのようにして能楽師になられたのかを、順を追って話して戴きましょう。 靖記: どうしてこの世界に入らなければならなかったかというと、3歳の終わりの頃だと思うのですが、親が舞台に出すために、僕は姉と2人兄弟なのですが、まず姉に稽古させる。それで姉を大変ほめちぎって、何かおいしそうな食べものを与える。 姉が稽古をすると誉められて、ご褒美や何かを貰えるのを見て、「僕もする」と言って、罠に填まったのが最初。 沼佐: それは罠にはまった!本当に。私にも違う分野ですが経験があります。 靖記: 父は、僕には罠を掛けたのですが、父に言わせると「自分も罠にかかった」と、父は3人兄弟ですけど、ある時ある方が、祖父(54世六郎)に「先生よく男の子3人(能楽師に)なられましたねぇ」と言ったそうです。そうすると祖父は「いやぁ、3人騙すのに苦労しました」と言っていたのを聞いて、父は「ああ3人兄弟そろって騙されたのかと思った」と言っていました。 (注:9人兄弟で、男兄弟が3人、上から1番目が先代六郎(55世)、2番目故雅俊で、恭行は9番目) そこで父も息子を騙した。何か舞台のこと(能)をすると、お鮨などのおいしいものが食べられたり、プレゼント貰えたり、プラモデルなどを買って貰えたりすると。だから舞台へ出たいというよりも、そちらの方が楽しみだった。 沼佐: 舞台に出るのには相当練習させられるのではないのですか、ましてや子供です。 靖記: 最初のころ(3〜4才のころ)は舞台を1周するだけ。 沼佐: 1周するだけ? 靖記: そのうちに色々と舞台をこなすうちに段々と難しくなっていきます。そうなると父は昔風の人間ですので、殴る蹴るで教えられる。 沼佐: へーそうですか。 靖記: そうなって来ると話がちょっと違うと思ったわけです。だけど、そう思ったときには、「時すでに遅し」です。 沼佐: 反抗期が遅かったのですか? 靖記: 反抗期というよりも、それは小学校の3〜4年生の頃だと思いますので、反抗期以前です。 沼佐: 一人の男の子ですので生まれてきたときから、お父さまはシミュレーションしていたのではないですか。 靖記: それもあるでしょうが、昔はだいたいそうやって、仕込むということは殴ること。優しく教わるのではなくて殴られながら、泣きながら覚えていました。 沼佐: 体で覚えさせる。 靖記: 逃げていても決められた舞台が近づいてきてしまう。もう仕方がなく殴られても、自分が覚えていないと恥をかいてしまう。 沼佐: そんなに健気な幼い日もあったとは想像もつかない。(笑) 靖記: 健気でしたネ。普段は非常に優しい父でしたけれども、稽古になると厳しかった。 沼佐: そういう風にはお見受けしませんね。 靖記: ある時切込の稽古の時(チャンバラのような場面のこと)、子供ですので順番を間違えることがあります。そうすると父は本当に長刀で切るわけです。長刀を飛んで逃げるところで飛び損ねた時には、本当に足を払われて、顔から落ちて舞台の堅い板に叩き着けられました。 沼佐: いくつの頃ですか? 靖記: 小学校の3〜4年生の頃です。 沼佐: そういう風にされて、どうしてこんな事しなくてはならないのかと思いませんでしたか? 靖記: それは、しょっちゅう思っていました。いつも皆が遊んでいて、のうのうとしているのに!たまたま稽古を晋矢君が見ていて、大変ビックリしていたみたいです。僕が本当に切られたりするところを見て、晋矢君はそういう稽古の仕方を受けていないので「あんなことされるのなら僕は絶対にやらないと思った」って言っていました。(晋矢とは同い年) 中学生くらいになると段々声変わりしてきます。声変わりの頃になると、今度は囃子の勉強を始めます。最初は、サボってばかりいましたが、だんだんと興味を持つようになっていきました。 沼佐: お父さまに洗脳されましたね。 靖記: ええ、囃子は外に習いにいきます。囃子方のよその先生は優しいんで。 沼佐: 優しいというのは自分の後を継がせる人ではないから優しいということもありますね。 靖記: 自分の子と他人の子では違いますよね。 沼佐: 自分の後を継がせようと思うと、やはり厳しい。 靖記: 中学生の後半に高校受験の時期になります。その頃は半年くらい舞台を休みました。 沼佐: 14〜15歳くらいの頃ですね。 靖記: それまではあまり勉強をしたことがありませんでした。父もあまり、僕が勉強をしているのが好きでなかったようです。 沼佐: お父さまは芸を仕込まれようとしていたわけですからね。 靖記: 中学生の頃に宿題があると、テレビを見ている時には「稽古をしよう」とは父は言わない。そろそろ宿題をしようと勉強部屋に入り、勉強をしだすと「稽古をする」と言い出す。「明日学校があって宿題もあるのでダメだ」と言うと、「それはやらないでよい。稽古の方が大事だ」と言って、稽古をするはめになるわけです。そのために、宿題が出来ない。次の日に父は母に向かって先生宛に「稽古のために宿題ができませんでした」という手紙を書かせて、それを持たされました。それを見た先生は困ってしまって「親がやらなくてよい」と言ったものを僕に対して怒るわけにいかない。 沼佐: なんとも言えないですよね、事情が事情ですものね。 靖記: 母が先生に呼ばれて、「学校の授業は、宿題をした上で進めているので、梅若君だけして来ないでよいというわけにはいきません」と言われて帰って来るわけです。母も困って父に話すと「学校の先生は判っていない。この道に行く者に対して、僕の頃は先生に梅若君はしなくてもよいと言われたのに、その先生を呼んで来い、僕が言ってやる」母はいつも困っていましたね。学校の宿題はしなくてはいけないものだし、父にしてみればそんなものはする必要がないと。 沼佐: 義務教育だけは最低限必要ですものねー。 靖記: 父は子供が勉強している姿がいやなんですね。 沼佐: お稽古している姿が見たいのかしら? 靖記: というか、勉強をすると生意気になるとかね、確かに勉強すると生意気になるかも知れませんね。でもそういう中でも、自分が大学に行きたくても行けなかったから、僕を大学に行かせたいとは言うんです。でも勉強しないと大学には行けないというのは、父は判らないのです。学校へ行っていれば自然に大学へ行けると思っているから。 沼佐: お父さまの気持ちも判るような気もしますが。 靖記: 話は戻りますが、それでいよいよ高校受験の頃になって、とにかく両立するのが無理だから勉強させてくれと。そんな状態でしたから中学2年生くらいまでは、クラスで下から数えた方が早かった。ところが2年生の最初の父母会で今の成績だとまともな学校にはむずかしいと言われました。本人も、これではまずいと思って、夏休みから代々木ゼミナールへ行って勉強をまじめにするようになりました。今までしていませんから、秋から成績がめちゃくちゃ伸びるわけです。何十人抜きって当たり前、それで3年生の1学期には学年で11番ぐらいにはなりました。それで勉強ってちょろいじゃないかと。 沼佐: 勉強というのは出来る環境になければ出来ないわけですから。そして無事に成城学園高校に入学なさった。それで、高校の時は舞台はなさらなかったのですか。 靖記: その時はしていましたけれども一番逃げていましたね。 沼佐: 第1次反抗期ですか。 靖記: というかまだ声変わりが終わっていない。体も大人と子供の間で中途半端だし。 沼佐: その時に(高校の時に)やっぱり自分は能楽師になるんだと思われたのか、別の人生を生きてみたいと思われたのか。 靖記: 僕は物理をしたかった。 沼佐: アインシュタインに憧れたのですか? 靖記: いえ素粒子をしてみたかった。これからの世界は素粒子物理学だと思ったんです。 それで物理の世界に行きたくて、高校2年の時には理科系を受験する勉強をしていました。受験の物理と化学をとっていました。ところが数学が・・・もし数学の成績が良かったら、能楽師にはなっていなかったと思います。でも高校3年の頃には一寸無理かなあとあきらめて、その頃に能でやっていこうかと思いました。そのために大学へはどいうい学部へ進むべきか考えました。担任の先生は国文学の先生でしたので国文学科へ行けと勧めたのですが。 沼佐: 能は国文と関係が深く、国文学へ進みそうに思いますけれどもね。 靖記: 文字の上だけでの理解というのはとてもイヤで、国文学は好きではなかった。 成城には民俗学という専門学科があり、古代の日本の芸能などを研究出来る。民俗学というのは常民文化と言って、普通の人がどうやって生活していたかという事を勉強していく学問です。常民の文化なしには芸術も高度なものもないと、例えば、文章に表れたりしているものは、ごく一部の人達の文化でしかないと、そこで常民の文化を知りたいと民俗学を選びました。(続く) |
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