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No.12 1999年
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朝長ついて
まずは能「朝長」の粗筋について 嵯峨清涼寺の僧が、平治の乱に敗れて自害した源義朝の次男朝長の跡を弔おうと美濃の国青墓へ出かける。そこで朝長の墓前で、供人を伴った青墓の長(女)に出会う。長は自分より他に弔う人はいないと思っていたのに、涙を流している僧へどんな縁のある人なのか問うと、僧は朝長の傅であった由を告げて、最後の様子を尋ねる。 そこで長は「去年の12月8日の夜、義朝親子らの一行が長の宿に泊まった。朝長は都にて大敗をして下る途中に膝を射られて、重傷を負ってしまった。このままでは父の供もかなわず、犬死するよりはと自害してしまった。」と語った。そして長は僧を宿へと誘って、懇ろに弔うように勧める。 僧が朝長が生前尊んだ観音懺法を読んでいると、夜更けに朝長の亡霊の甲冑姿が、夢幻の如く現れでて来る。亡霊は義朝の嫡子義平は生け捕られ六条河原で斬られ、三男頼朝は捕虜になった。父義朝はこの宿からさらに野間の内海へ落ちたが、頼りにしていた長田に逆に討ち取られた。その不忠に比べ、この宿の長は女ながらにも、今でもこうして跡を弔ってくれる志の深さに感謝する。しかし魂は善処にあるけれども、魄は修羅道に残って暫く苦しみを受けているので、重ねて回向してくれるように頼みながら亡霊は消えていく。 作者は世阿弥で、出典は「平治物語」とされている。 ミニ知識 能は江戸時代に徳川幕府の式楽となり、「翁付五番立」が公的な演奏となった。世阿弥はこのような分け方をして作ったのではないので、少々無理もあるが他によいと思われる方法がないので一般に定着している。 一番目物(脇能物・神能) 神をシテとして社会の平和や人々の幸福を祈ることや神社仏閣の縁起を語ったりする事を中心とした作品群。ドラマ的な要素は少ないが、舞踊や音楽の面では多彩な物も多い。 高砂・賀茂・嵐山・竹生島・鶴亀・老松 等 二番目物(修羅能) 主に源平の武将の亡霊がシテで、死後も修羅道で苦しむ様子を描いた作品群。世阿弥が確立したジャンル。敗北者の滅びの美学を描く物が多い。 清経・敦盛・頼政・田村・八島・忠度・朝長 等 三番目物(鬘物・女物) 「源氏物語」や「伊勢物語」などの王朝文学の登場人物を中心に優美な女性の亡霊をシテとして恋物語を回想する作品群。大袈裟な表現はないが、能の理想美である「幽玄」を追求した作品が多く、能の代表的なジャンル。 井筒・野宮・江口・松風・羽衣・熊野・定家 等 四番目物(雑能) 他の分類に属さない物狂いの能や、執心、唐物など内容が豊富な作品群。人気曲も多い。 隅田川・芦刈・邯鄲・通小町・安宅・俊寛 等 五番目物(切能・鬼能) 主に人間以外の鬼・天狗・龍神などをシテとした能で、ダイナミックな動きの多い初心者にも見やすい作品群。 船弁慶・紅葉狩・安達原・土蜘蛛・石橋 等 さて朝長の鑑賞のポイント 前記にあるように修羅能である。特に「実盛」「朝長」「頼政」は「三修羅」と呼ばれている。テーマ及び演出面で特殊な構成のため重い修羅能として扱われている。主に修羅物では前シテは化身(老人だったりする)であるが、朝長の場合は、ワキの僧と同じ次元にいる女性である。その女性に朝長の自害した様子を語らせるという手法が使われている。そして後シテとはまったく別人であるのも修羅物として稀である。また前シテはそれほど若くない女性であるのに対して、後シテは年若い武将である。前半は動きが少なく物哀しい様子を漂わせるが、二番目物であることで、弱々しくならないことがポイント。後半は爽やかに品よく、痛ましい公達で、荒々しくならないことがポイント。 源朝長(1144〜1160享年16才)について 平治の乱(1159年12月9日)で敗れ、東国へ逃げる途中に、龍華越で比叡山横川の法師の射た矢を左股にうけて、歩行困難になり美濃の国青墓にて12月29日に自害したとも数日後に義朝に刺殺されたとの説がある。 源為義一家 為 義 _________|________ | | | | | | | | | | 行 為 為 為 為 頼 頼 義 義 義 家 仲 朝 成 宗 仲 賢 憲 賢 朝 | | 義 | 仲 | ___________________| | | | | | | | | | | 女 義 圓 全 範 希 義 頼 朝 義 子 経 成 成 頼 義 門 朝 長 平 今年の夏の出来事 梅若靖記 今年の6月の末にイタリアのミラノを経て、ジェノバへと行ってきました。 飛行機の都合により、関西空港からドイツ・フランクフルトへ、そのままミラノに入るとかなり夜が遅くなるために、一泊して翌日の便でミラノへ向かう事になっていました。ミラノへ向かう朝に、フランクフルトの飛行場で経験したことは、ちょっと冷や汗もののこととなりました。何故ならヨーロッパは、そろそろバカンスシーズンに入ってきていたので、チェックインする人たちで長蛇の列でした。なんとか間に合いましたが、少々ビックリした一件でした。皆様も海外へお出かけの時には、バカンスシーズンにはその国の飛行機会社の便のチェックインには充分お時間にゆとりを持って出かけることをお勧めします。 さてミラノを経て、ジェノバへ向かいました。ちなみにジェノバは、最近では16歳の日本の高校生がパガニーニのコンクールで優勝したことで話題になった場所で、コロンブスが幼少時代を過ごした場所でもあります。なぜジェノバへ行こうかと思ったのは、数年前にキオッソネー美術館展があり、その時来日中の館長のフェイラ女史を、知人を介して紹介されました。能面があるので、どういうものがあるかは美術館側としては、よくわかっていないので、もしイタリアに来ることがあれば、見てほしいとの要請があったことを思い出したからです。 美術館には本当にたくさんの種類の所蔵があり、なかなか一度に見られるものではありませんでした。また、展示しているのはほんの一部だそうです。能面も見せてもらいました。見たところ能面等約40点、その他の面20点くらいがありました。能面に関しては、何点か江戸期の名品があり、その他安土桃山時代のものと思われるものもありました。以前に説明を受けたとうり、図録などが整備されていないし、かなり痛みが激しく、このまま放置すれば、彩色等がはがれ落ち、美術品としても価値が無くなると実感させられました。保存状態にもあまり恵まれているとはいえない状況を直面すると日本人として、能に携わっている者として、せっかくの日本の名品をイタリアの都市まで運んだキオッソネーの遺志に答えたいという思いを強くしました。 素晴らしい日本の名品があるのですが、あまり知られていないためか、訪れる日本人は少ないようです。 キオッソネー東洋美術館(Museo D'Arte Orientale "Edoardo Chiossone") 明治の初めに大蔵省紙幣寮に招かれ、日本の紙幣・印紙・切手の印刷を指導したイタリア人のキオッソーネが、蒐集した日本の美術品(仏像、浮世絵、鎧、能面、など様々)二万数千点の一部を展示している。キオッソーネの死後1905年よりイタリアにて公開している。 キオッソーネ(Edoardo CHIOSSONE)1832〜1898 イタリアの銅板画家 1867年パリ万国博覧会にて銀賞受賞した後、イタリア政府の嘱により紙幣改良のためドイツに赴いたが、たまたま日本政府が紙幣製造の独立を企てドイツから機械を購入すると、共に銅板彫刻師を招いたので、これに応じて来日し、(75年)紙幣寮(現在の印刷局)にあって、公債、切手等の図案とその銅板の製作に91年印刷局を退職するまで従事した。また明治天皇、西郷隆盛、三条実美、大久保利通、岩倉具視等の銅板肖像画を作った。また、日本人との交流も厚く、来日後一度も祖国の地を踏むことなく1898年に千代田区平河町で亡くなり、青山外人墓地に埋葬された。91年勲3等瑞宝賞受賞また、北区王子印刷庁滝野川工場に記念碑がある。彼が在職中に彫刻した紙幣、切手、印紙、各種の証券類の印刷見本合計185枚も、イタリアに送られ大切に保管され貴重なものとなっている。(日本では、関東大震災の際消失してしまい、残存していない。) 対談 梅若靖記氏の大学での研究の話 聞き手:沼佐真也子 前号でお届けできなかった大変真面目な靖記さんの大学に入ってからのお話を続けます。 靖記: 大学時代が一番勉強していると思います。1年の時からいろいろな先生を尋ねて、どういう本を読んだらいいか聞いて、もう優等生中の優等生でした? 沼佐: 何年も前からお知合いなのに、初めてお聞きする話がいっぱいありますね。 靖記: 大学2年生の頃からは、いろいろな先生の研究室に入り浸って、大学院生と話をしたり、どんな本を読んだらいいか等いろいろなアドバイスを受けました。元来本を読むのは好きではないけれど大学時代の研究書というのはかなり読みました。結局卒論に「仮面の成立の文化的な背景」というのを選びました。ところがそれが壮大なテーマで結局大学にいる間に書けなかった。 沼佐: 今でも追っているという? 靖記: そう、未練を残している。(笑) 沼佐: 話は少し飛びますが、能面というのはどこから伝わってきたのか、説明がしにくいように思いますね。 靖記: 能面というか、日本の仮面は一般的には大陸から伝わったというように言われているのですが、それ以前に既に日本には仮面がありました。 沼佐: 私的な意見では能面は中国からだとは思いません。何か日本独自のものに感じます。 靖記: 縄文時代の土面でも出ていますし、弥生時代では木製の物が出ています。ただし漆を塗る技術や彫刻の技術は確かに中国から伝わったものだと思います。 沼佐: 漆というのは中国から来たものですか。 靖記: ええ、おそらく漆や彫刻の技術は中国から仏師といわれる日本の仏像彫刻の人達に伝わり、その技術が能面に入り能面が飛躍的に鎌倉時代に発展するんです。それは事実ですから影響を受けていないとは言えないけれども。 沼佐: 文化の流れがないことは、ありえないと思いますね。 靖記: ただ大きな違いは大陸系の仮面はかぶり面で、大きいものが多いのに対して、日本の仮面は付け面で、小ぶりな物がほとんどなんです。これは縄文の仮面から能面までそうなんです。その他にも仮面の裏にある文化的背景に違いがあるんです・・・ 沼佐: あのぉ、大変興味あるお話なのですが、このまま伺っていると論文がここに書けてしまいそうなので・・・ 靖記: いやぁつい熱が入ってしまいまして。(笑)そういう研究をしていたのですが、あまりにも壮大なテーマに挑んだために卒業はしませんでした。当時大学の先生は皆さん可愛がって下さっていましたので、先生に「卒論は何でもいいから出しなさい。君が普段から勉強しているのはみんな(先生方)知っているから絶対に卒業できるから。」と。僕は普段のレポートでも10枚のところ、もっとたくさん書いて出していたことも度々でしたので、(先生は)「普段書いているように書けばそれで充分卒論になるから。それでいいから。」と。ただ若気の至りで「そういうのは嫌です。」と。 沼佐: 妥協できなかった。靖記さんの性格だと判る気がしますね。 靖記: 僕はこれを研究すると決めた以上はこれをやりたいと。このままだとこれで終ってしまいますからと。僕はライフワークとしてやりますから別に卒業はしなくてもいいです。先生は「それだったら適当に出して大学院に行けばいいじゃないか。」と。それも嫌です。僕は心情として嫌なのですと。今考えて見たら何でも良かったと思うのですが・・・一応卒業しておけばね。 沼佐: ご性格が良く現われているような。大学院に進まれても良かったかも知れませんね。今からまた行かれたらいかがですか? 靖記: だから未だに尾を引いていて、実際今、古事記の勉強をしに行っています。ある時お願い事があって大学時代のゼミの先生をお訪ねしたのですが、その時先生に「僕、またもう一度日本の歴史を勉強したいと思って古事記を読もうと思っています。」とお話しましたら、「今、卒業生で日本の古典を読む会をしているから、次からちょうど古事記をするところだから。」と誘って戴き参加させて戴いています。月に1回できる限り参加しています。あんなに嫌いだった勉強がなぜ今したいのか不思議です。でも実に楽しいのです。 沼佐: それは目の前にある時は、その物の価値が判らないものです。フランス人が言った言葉でこういう言葉があります。「青春は若者にはもったいなさ過ぎる。」目の前にある時は判らない。それを後にした後で判るいろいろな人生の意味がある。正にそれですね。 靖記: とく忙しいから何もできないというけれども、忙しい方ができますよね。もっと暇なときもあったのにその時は勉強しなかった。 沼佐: 忙しくても時間は作れますものね。 靖記: 何十時間もするわけではないですからね。 沼佐: そうですか今は古事記の勉強ですか。 靖記: そうなんです。 |
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