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No.13 2000年
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能との出会い−梅若靖記師と私
沼佐真也子 忘れもしないそれは13年前、1987年9月のことでございました。当時、月刊誌「地球派・21」の創刊編集長として肩で風を切って驀進していた私は、創刊1周年記念号の『過去・現在・未来』の頁のため、目玉特集に最高の科学技術と芸術の組合せを目論んでいました。その企画は宇宙開発事業団の最新鋭宇宙技術(今も当時よりほとんど進歩していないと、最近誰かに聞きました)と能楽の組合せ。テーマは『劇的宇宙空間VS科学的宇宙』斬新かつ画期的な企画だったと今でも自負しています。持論として、人間が人生でできる最高の事は芸術家に成ること、それがかなわなければ、関わること。つまり、芸術文化を成立させるには3要素あり、まず芸術家本人、次に観客またはコレクター、最後に(そしてこれがかなめ)芸術文化を世に出すためのプロデューサー。そのどれかが人生最後の集大成、と漠然ながらも確信を持つようになった時期でした。 うそ偽りはございません。曽祖父代々、江戸・明治より西洋文明至高主義の家庭に育った私は、自宅は基より全て西洋式生活。実家のお風呂はもちろん西洋式。身の回りの物全てに接する(される)家庭環境に育まれながら、日本が世界広しと言えども何者にも引けを取らないモノ、それが能楽でした。 13年前に戻ります。バブルの始まりの頃、そろそろ金融ブームもこの辺りだろう、じゃ兜町取材でもいれとこか。東京証券取引所と江戸凧の組合せを企画。揚がる時ありゃ落ちる時ありがテーマ。かのブラック・マンデー前の金曜日が、証取取材当日。行ってみたら市場閑散。ニューヨークが下げた、そうで、それでも東証すごかった。仕事が終り、次に劇作家の友人との打ち合わせ。数々の受賞歴持つ、自慢の友人。かねてより、彼女の作品を世に出すべく準備を進めていました。場所俳優座の本劇場、制作には俳優座所属のプロデューサー。金の算段は私。ところが、当のプロデューサーが多忙につき降りざるを得ない状況。作家本人とその後2人で打合わせ、本人は小劇場(450人)収容でポケットマネーでもやりたい、とだだをこねる始末。私は私のポケットマネーを用意していたものの(本人は今でも金額は知りません。いいんです、芸術家はお金に疎くて。)、みすみす汗水たらしてやっと蓄えたお金をドブに捨てるようなバカではありません。お金がありゃいいってもんじゃありませんが、お金が無ければできない重要なことも多々あります。因みに、私の現職はODAコンサルタント、手掛けたプロジェクトで救った命は無数です。経営上成立たないことはしない、と言う私と彼女は言わば喧嘩別れのように。 忘れもしない、雨のショボ降る六本木、霧雨に濡れながら、挫折感を引きずりながら、せっかく用意した資金が宙に浮いた、仕方ないから株でも買おか。実は私の専門は国際政治経済史、専攻は第二次世界大戦。ロンドン大学院留学(1970年代、勉強できるのはここしか無かった、米国にも無い)帰国後、ジャーナリストとして就職し、世界の動きを察知するために株式を毎日、新聞で読んでいて(当時、勤務先の新聞社は業務9時始まり、でも7時には出社して赤旗を含む全紙に目を通して、その後出社して来る社長以下社員全員にお茶まで出してあげていたので、お茶汲みのおばあちゃんから「私の仕事を増やした」と嫌味まで言われた。)株の動きで経済の動きが把握できるので、政治の動きの把握に役立てていました。時は金曜日の深夜、明日は土曜日につき株式市場はお休み。仕方無いから週明け月曜日に野村に注文いれて。実は、株式を見ている内に、上がる下がるが手にとるように見えてきて、実は私、株やってたんです。でも編集長に就任した時、編集長たるものすべきではない、と全部売ったのがその数ヶ月前。 間の日曜日、梅若能楽堂での取材。舞台が終り(私の第一印象はその前日の日比谷シティ−薪能、「こいつはヤバイ!何がなんだかわからない!原稿どーしよう」)、楽屋へ(世が世なら、女人禁制)。靖記さん(あえて、梅若さんはたくさんいらっしゃるので)にいろいろ御説明頂き、ついに能面の撮影。カメラマンが撮影している間に私はインタビュー。「これらは、日常的に使う物で、特別な時にのみ使うのは別にあります。」「この能面はいつ頃の作で?」「ごく最近の物です。」「それにしても、古そうですね?」「ま、江戸の中期から後期あたり。」 私にとって運命の分水嶺。帰り道、あの「梅若能楽堂沿いの環6」歩道を一人歩きながら、「私が求めていたものは、こういうものだったはずなのに、ひとつ暗礁に乗り上げたからといって、株でも買おうなどと一瞬でも思ったわが身の情けなさ。」つくづく身に凍みて、株はやめ。その結果、大暴落の難にも遭わず、1年後、現在の自宅兼プライベート事務所を手に入れました。その当時、世話人の一人でもある舟橋健介氏と梅若氏と朝まで徹夜で芸術論に花を咲かせたのも良い思い出です。 13年前に執筆した原稿は、まだ能楽に触れたことのない方々を対象に、自らの経験に基づいて描きました。おがたま事務所に問い合わせてコピーを入手してください。コピー代・切手代は自前でお願いします。靖記さんはヨーロッパ公演でお金がなくなりましたので。よろしく。 私の母校慶應義塾女史高等学校では、毎月全校生徒の投票で選ばれた方々に月例講演をお願いしていました。その中でも最も印象的だったセリフのひとつ、今は亡き芥川比呂志師の「演劇は嘘の世界である。でも嘘でしか表現できない真実もある。」縁遭って4年もの間留学した英国は演劇の盛んな国のひとつですが、芸術文化を高揚することに関する熱意は世界一流です。日本も対抗したいものです。 わが人生の最後の夢は芸術のパトロンになること。権威に弱くお金で動く人間には成らない。人生最後に笑う者になればいいんです。そうそう、逆転ホームランよ!てやんで、べらんめい口調で失礼しました。何せ江戸っ子なもんで。 「邯鄲」について 能の粗筋 中国の蜀(しょく)の国に住む盧生という若者が、人生の悩みを解決するため楚の国の羊飛山にいる高僧に教えを受けようと旅に出た。その途中邯鄲の里で一軒の小さな宿屋へ泊まった。宿の女主人は、粟飯を炊く間に一眠りを勧め、将来を知ることができるという不思議な力がある有名な邯鄲の枕を貸した。盧生は喜んで横になった。 突然楚の国の勅使が現われ、盧生に帝位が譲られたと告げられる。驚く盧生は玉の輿に乗せられ、宮殿に入っていった。帝になった盧生は大臣や舞童に囲まれた栄耀栄華な日々を暮らす。こうして王位についてから50年の月日が経ったある日、臣下が仙郷の酒盃を捧げ、これを飲めば寿命は千歳にもなるのだそうである。可憐な舞童が舞を舞い、盧生も興に乗じて皇帝の舞を奏する。しかし、粟飯が炊けたという宿の主の声が聞こえ、目が覚める。盧生は全てが夢の中の出来事だったと気づく。50年の栄華も粟飯一炊の夢だと悟った盧生は、故郷へと帰って行く。 能「邯鄲」の特徴 まず、舞台に1畳台(ちょうど畳1枚ぐらいの高さ10cmくらいの台)と呼ばれる台が舞台地謡の前に置かれます。そこで間狂言(宿の女主)が枕の作り物を持って登場して枕を1畳台の上に置きます。(狂言口開けという)シテ(盧生)が登場して、間狂言と問答の後に1畳台に上がり、実際に面の上に唐団扇を当てて横になります。能ではひじょうに珍しい光景です。またその間にワキがワキヅレ(勅使)と共にゆっくりと橋掛かりを歩いて登場してきます。この能はシテが現実の人間で、シテの夢の中にワキが登場するというのはこの能だけである。また、1畳台は、宿の寝室、華やかな宮殿、元の寝室と時間と共に変わっていく。シテは1畳台で舞い始め、途中で足を踏み外す型があり、(一瞬現実に戻った姿を表現している)次第に舞台へと移り舞を舞う。舞い終えると1畳台に飛び込むように横たわった形に戻る。狭い1畳台の上を大きな宮殿に見立てているので、シテには狭さを感じさせない舞を要求される。またワキや子方(舞童)は、夢の中の人なので、シテが舞っている間に静かに切度口より消えていく。 ミニ知識 邯鄲:中国河北省邯鄲市(北京から南西400km位)戦国時代趙の都として最も栄えた。 能の作者は不明だが、『枕中記』、『太平記』巻25の出典とされている。 邯鄲の夢:邯鄲の町で見た夢 人間の一生における栄華盛衰は、一場の夢に過ぎないことのたとえ。(大修館書店故事成語名言大辞典より) 類義語として:邯鄲の枕、一炊の夢、黄粱一炊の夢、盧生の夢、嚢中の枕など 「枕中記」を要約すると 盧生は邯鄲にて神仙術を持った呂翁と出会い、枕を借りて寝たところ、すぐに良縁のひじょうに綺麗な女性と結婚し、栄華を50年も極め、その間に5人の子どもと孫10余人に恵まれ、80歳を超えたところで、病気で死ぬというところで目が覚める。まだ黍は蒸せてなく、傍らに呂翁が座っていて、今のことが夢だったかというと人生も夢のごとくだと教えを授ける。 多少能の話しとは違っています。 第28回「経堂音楽の夕べ」レポート 前々号(No.11)にお届けした『能楽を楽しもう』に続く第2段として、『狂言を楽しもう』として、9月15日に午後2時より経堂の福昌寺にて開催された。 当日は開演するとすぐに大きな雷鳴と激しい雨が降る中、2世野村与十郎氏を始め、野村晶人・山下浩一郎両氏の熱演を間近に感じることができた。その日はシドニーオリンピック開会式の日にあたり、与十郎氏は狂言における移動方法、テレビ手法ならなどと説明を交えながら、見事にシドニーまでいかれました。また、珍しい袴狂言(紋付のみで行うこと)にて、「盆山」の狂言を晶人氏・山下氏で演じてくださり、狂言では犬はビョウビョウと鳴き、猿はキャアキャアキャアと鳴き、さて最後の鯛は?・・・また狂言の小舞を、普通に舞う場合と酔った場合など、実演を交えながら判りやすく説明していただきました。装束をつけるところを見せてくださり、狂言『仏師』を熱演。最後に質問コーナーにても丁寧にお答えくださり、和やかな盛りだくさんの有意義な時間を過ごすことができました。帰りには雷雨も上がり皆さん満足げに帰られていきました。最後にご尽力いただきましたスタッフの皆様のご努力は大変なこととお察し申し上げ、厚く御礼申し上げます。 |
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