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No.18,19 (合併号) 2003年
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父 梅若恭行を偲んで
梅若靖記 本年1月20日に、父である梅若恭行が他界致しました。父のことを偲んで四方山話をしたいと思います。 父の生まれた背景 父恭行は、大正6年に二世梅若実の三男として、九人兄弟の末っ子として生まれました。長兄は、長男の先代六郎、次男は故雅俊で、間六人の姉にはさまれておりました。一番下でしたので、わりと甘やかされて育ったようです。親もどうでも良いというと語弊がありますが、上二人を育てたような厳しさはなく、育てられたようです。末っ子で甘えん坊だったようで、小学校は女学校に通っていたようです。当時は男の子でも女学校に行けた様で、「僕はお姉さんと同じ学校でなければ行かない」といって、入学したようです。その当時学校に三人位は男子がいたそうです。その学校も現在は無くなってしまいましたが・・・母親を早くに無くした父を姉たちが皆で周囲を庇護してくれ、面倒を見てくれたようです。すぐ上の姉が結婚する時には、しがみついて「僕もいっしょに行く」と泣いて大変だったそうですから。つい最近聞いた話ですが、何かあると「アンニャンニャ」と泣くので、その頃の姉たちからのあだ名が「アンニャンニャ」。さすが姉たちはうまいあだ名を付けたものだと感心してしまいました。ですから祖父は上二人(六郎・雅俊)が、この家を守る跡取りにすると決めておりましたので、一番下の父は大分歳が離れていたので、なるようになってくれればよいと思っていたようです。上二人にはずいぶん厳しかったようですが、父には物凄く甘かったようです。たとえば、当時ですから食事の折には、家長と長男には盛が多く、次男や姉たちは少なかったようですが、末っ子の父には父親から回って来て、山盛りになっていたらしいです。そんなことですので、上二人はこの家を継ぐものとして、小学校までだったのですが、父は「学校へ行きたい」と中学校までは行っておりました。しかし、やがて観梅問題が起こり、こちらの世界に専念せざるを得ない状況になり、大学へ行くことを断念したようです。父には大変残念だったようで、私には学校へ行かせたかったようです。 父の趣味 大正の始めに生まれましたので、大正期、昭和の始めと割と豊かな時代に育っていましたので、テニスをしたり、ボートを漕いだりと、ハイカラさんで、カメラを趣味に持っていたと聞いております。けれども、父の写真はついぞ見たことがありませんでした。父曰く大変写真は上手かったのだそうです。今となっては証拠がありませんのでそう言うことにしておきます。また、犬も飼わせてもらっていたようです。それもドイツから取り寄せた犬だったので、しつけはドイツ語だったということです。末っ子で幼い頃に母を無くして、祖父も父を不憫に思ったのでしょう。長兄達にはしてやらなかったことも父にはずいぶんと与えていたようです。 いたずら 茶目っ気のある父でもありました。下町に住んでおりましたが、その窓から外に向かって歩いてくる女子学生に水鉄砲で水をかけて喜んでいたようです。また、お弟子さんが持ってきたお菓子を見つけると、二、三個頂戴して中身をずらし、またきれいに包んで素知らぬ顔をしたこともしょっちゅうだったようです。小学生がするのは解るのですが、今から考えるとそれをやっていたのは中学生くらい。ちょっと幼かったのかも知れません。 戦争 やがて戦争になり、今だから言えるのですが父の三兄弟は誰も戦地には行っておりません。旧家の跡取は、内地止まりで済むようなことがあったようです。ちょうど体も丈夫な方ではなかった父は、その頃肋膜を患っておりました。徴兵検査では、甲乙丙丁の丙でした。そのときの検査官のトップが、能が好きだったらしく、ひ弱なぼんぼんを、戦地にだすよりは能をやってもらったほうが良いと思ってくれたようです。人がいないところへ呼ばれ、お尻をバンと叩かれ、「舞台がんばれよ」と言われたということです。その後も何回か徴兵にとられそうになったこともあったようです。終戦間近の頃には、車の運転ができるかどうか聞かれ、父は免許を持っていなかったのですが、お弟子さんの車などを動かさせてもらっていたので、運転はできたのですが、たまたま手を挙げなかった。手を挙げていた人はそのまま入隊、戦地へと行ったらしいですから。命拾いをしたようですので、生きる運は持っていたようです。そのような状態ですので、能を舞うことなどできませんでした。戦禍を免れる為に、装束や道具類をあちらこちらの蔵に分けて、疎開させたりしましたが、いくつかは焼けてしまいました。六郎・雅俊・姉たちは、もう結婚しておりましたので、当時、父は祖父と二人で厩橋に暮らしておりました。東京大空襲の折には、いくつか残っていた装束を、山崎英太郎がリヤカーに積んで逃げ、父は祖父をおぶって、隅田川を泳いで向こう岸に渡り、着いて振り返ると焼夷弾で後ろは真っ赤だったそうです。一瞬渡るのが遅かったらおそらく生きてはいなかったでしょう。 先代六郎と 少し話は外れますが、上二人の兄は結構遊んでいたらしいのです。上の兄六郎とは10歳以上も離れておりますから、六郎の兄が父を連れて稽古に行くと言って家を出るのだそうです。そのお稽古場は二階建てで、一階には火鉢があるところがあって、「それではお兄様は二階で稽古があるからここで待っていなさい」と言って六郎の方は二階へと消え、父は一人下で待っていると、きれいな着物を着たお姉さんたちが、お菓子をくれたりしてすごく楽しい思いをしていたらしいのです。そのお稽古はずいぶん長かったらしいのですが、お謡いのお稽古なのに三味線が聞こえてきたりしていたらしいのですが、しばらくして降りてきて、父に向かい「稽古が終わったから帰ろう」と言って帰るのです。そういうことが度々あったようです。姉たちに育てられ純粋培養の父は花柳界に行っているとは全く気づいていなかった。兄貴は上で稽古をしているものとずっーと思っていた。きれいなお姉さんがお菓子などをくれるのは、自分が美男子だからと思っていたらしいのですが、さすがに30歳くらいになると、あの時兄貴は上で遊んでいたと悟ったらしいのです。私から考えると。もっと早く気がついても良いようなものの、そういった浮世離れした所がありました。 騙し騙され 少し話しを進めて、私を登場させましょう。3歳くらいから稽古を始めました。といっても3歳の子が自ら、稽古をするとは言いません。そこで、姉をダシに使ったのです。姉とは7歳ほど違いますので、当時10歳くらい。その姉に稽古をさせて、誉めたりお菓子を与えたりして、私に見せつけるのです。3歳の子は、「僕も誉められたい、お菓子がほしい」と言うと、「お稽古したらお菓子をあげる」といわれたのです。そこで「僕もお稽古する」と言って、騙され今があるわけです。後に父に「あの時騙された」と言ったら、「俺も騙されたんだから、順繰りだ」と言われました。その昔、ある時3兄弟と祖父が同席していた折、お弟子さんが祖父に「3人のご子息を能楽師にするのは大変でいらっしゃいましたでしょう」と言うと、祖父は「やぁ騙すのが大変でした」と答えたらしいのです。それを聞いた三兄弟は、「俺たち騙されたのか」と思ったそうです。最初の頃は、何をやっても誉められ、おもちゃも買ってもらえる。それが小学4〜5年生位になると、ちょっと毛色が変わってきた。何か殴られたり、足蹴にされたり、私の中では「話が違うと思ったのですが、時既に遅し。番組(プログラム)に名前が載っているので、出演することは決まってしまっている。そこで殴られても蹴られても、やめるわけには行かない。何か詐欺みたいな話だと思っていました。「能楽師になるのに好きで始められたのでしょうか」と、よく聞かれるのですが、好きも何もなく最初は騙され、後は名前が載ってしまったということで仕方無しに。仕方無しにするのですが、舞台に出れば、誉められたりご褒美をもらったりしますので、ちょっと得意な気分になり、他の子とは自分は違うのだと少し優越感に浸ることもできました。 学校との両立 小学生の頃は良かったのですが、中学生になると勉強も大変になってきます。先ほども少し触れましたが、父は学校へのこだわりがありましたから、私にはきちんと行かせたかったのです。それは最もな考えなのですが、勉強をしなければ授業についていけなくなり、上の学校へいけないとは全く考えが及ばないのです。父の頃は「梅若君は舞台があるから」と言う理由で、特別扱いがあったようですが、私の頃にはそうは行きません。私が宿題を始めたり、勉強をしようとすると「靖記、稽古だ」と言ってさせてくれません。今までテレビをいっしょに見ていた時には何も言わなかったのに、どうも父は勉強している子供の姿は見たくなかった。自分が阻害されているような気分になっていたのでしょう。仕方がないので稽古をすると、案の定宿題ができない。「学校へ行くのに困る」と言うと、母親へ向かって「理由を書いて持たせなさい」と言う。字が上手かった母親も仕方無しに事情を巻紙に綴り、持たせる。巻紙の手紙をもらった先生は当惑してしまい、母を呼び出し、先生が「こんな手紙があれば本人を怒ることはできません。宿題をしてこなかった他の生徒は、立たせているのに梅若君だけ特別と言うわけにも行きませんので、お父様によく話して下さい」と言われたのですが、そんなことを何回も繰り返していました。勉強をすると稽古になるので、「もう中学で良いよ。中学なら義務教育なので、勉強しなくても卒業できるから」と言うと、「だめだ、高校にも行け」と。言っていることが矛盾していて大変困りました。でも、矛盾していることは父には解らなかったようです。さすがに高校受験の時には、理解してもらい、半年ほど舞台などをお休みさせてもらいました。 父との稽古と私の自我 その後私は高校大学と進み、能楽師としての本格的な稽古も始まりました。但し昔気質の稽古でしたので、質問はだめ、全部言われた通りにやること、工夫をしてはいけないと言う教えでした。高校生くらいになると色々考えてこうしてみたいとか、ああしてみようかということは、真っ向から否定されました。殴る蹴るは当たり前、それはとても嫌でした。只私は稽古と言うものはそういうものだと思っていたのですが、後にそうでもなかったことを知って、皆がそうだと思って我慢していたのに、自分だけだったのかと随分と損をしたものだと思いました。26歳から27歳の頃になり、今の六郎先生の芸を真似するとすごく怒りました。常に間近で見ていますので、真似をするつもりはなくても無意識の内にしていることがあります。それを見ると物凄い剣幕で怒るのです。父以外のものを真似をしてはいけないと。 父の注意の仕方 一番困ったことは、他の人が邪道のようなことをすると、私が怒られるのです。私にそのようなことをやらせないようにしたいと思っているのだと思うのですが、周囲の人は「靖記君はいつもお父上に怒られている」と思われておりました。ですから周りの人からは「いつもお父上に怒られて、靖記君少し考えた方が良いよ」と言われてしまいました。私としては、自分でなくて「あなたのことを怒っているのよ」と言いたかったのですが・・・また、一緒に謡っている地謡などが揃わなかった時に、父はその本人に言わなくて、私に言うのです。「靖記、ちゃんと聞いてなくて、おまえは外れているよ」と怒るのです。父は私に注意すれば、息子が怒られているのだから自分たちも気をつけなくてはいけないと考えてくれるという思いだったのですが、そうはいかずに周囲の人たちからは、「靖記君はよく聞かないで謡い、いつも音が外れて間違えている」と思われてしまいました。私が周囲の人は、私が怒られているだけとしか取らないと訴えても、そんなことはないと思っていました。ある時いつものように私を怒って行こうとした時に、外れた張本人から「靖記君、音が外れているよ」と私に言われたのを聞いて、その人に向かって「あんただよ!」と言い放ちました。やっとこの件は悟ったようでした。父としてはとても信じられない事件のひとつで、ちょっとショックだったようです。 父との葛藤 息子の歳が24歳から25歳の頃になると、親の教えの方と逆の方の方法で自分の芸を表現しようとします。どうにか自分を見つけたいと思いますから。先代の六郎と祖父はそれで5〜6年間口を利かなかった。先代の六郎が20代後半になった頃に舞った姿を見た祖父は、「あぁ、あいつもここまで来たか」と言って、それ以来祖父の方から話をするようになったということです。ところが父は末っ子で、祖父は甘やかして育てています。また、息子も3人目となると、祖父のほうも心得ていますので、関係が危なくなると兄貴たちに任せてしまう。ですから、父は親とそういう葛藤がなかった。そこで私がそのような状態になった時に、どうしてよいか解らない。それに対してただ押さえ込もうそれのみでした。今の六郎先生と先代もそういう時期がありました。先代の六郎は自分も経験しておりましたので、今の六郎先生がそうなってきた時に、やはり気に入らない。周囲や雅俊の伯父、父には当り散らしておりました。「あんなことは知らない。あんなの俺の息子ではない」などと言って、「恭行見とけ」と奥の自宅へと帰ってしまう。後に伺うと今の六郎先生には、直接一言もそういったことを言ったことがなかったそうです。先代の六郎は、そういう時期がきているので、今はここが親である師匠の我慢の為所、「抑えたら目を摘んでしまう」と思っていたようです。しばらく息子の舞う姿を見ていませんでした。しかし父はそういう経験が全くなかったので、私にとってはかなり大変な時期でした。 「招魂」発足の背景 私が30代半ばに入ると、父のそういったことはなくなってきました。その頃にちょうど私の後援会を発足させ、招魂を始めました。父は年2回公演能を行っておりました。そこで私も舞う機会を作ってもらっていました。ところがある日、父が「後援会は年に1回にするから。会の方も縮小して、能1番にするから。お前勝手にしなさい。やりたければ自分でしなさい。」と私に告げました。その時がある意味での親子の決別となり、私を能楽師の一人としても、父が見られるようになったのかもしれません。父の言い方は、「積極的に後援会を始めなさい」と言う形ではなく、「自分は歳をとって、色々と大変になったから、しないだけだから。あんたが自分でしなさい」と言うことでした。やはり同じ職業ですので、親と言っても息子に対してライバル心があるのです。逆に父は祖父が言ってくれるのを待たないで、雅俊の兄と二人で会を始めようとしたら、祖父には「百年早い」と言われて、後援者の方を中に立て、ようやく始められたようなのです。そういった経験から、いずれは私にもやらせなければいけないとは思っていたようです。でも、会を発足させれば自分から離れていってしまうような寂しさもあり、なかなか踏み切れなかったのでしょう。私も30代半ばになり、父もやっとその点に関して諦めがついたのでしょう。本当に素っ気無く私に告げました。知らないとは口では言っていましたが、勿論発足に当たり、色々と手助けはしてくれました。「安宅でも、やってやろうか」と言って、「第一回招魂」で、「安宅」を舞って祝ってくれました。父であり芸の師匠でもある関係の難しい一面でもあります。 父との日常会話 普段の父は、ちょっと世間知らずの全く普通の父です。舞台においては絶対者でした。ですから、家でも舞台の話をする時には、私の方は正座をして、「ハイ、ハ、ハイ」と敬語使いで答えます。まったく同じ状態で別の話になると「何言ってるのおやじ。違うじゃない。ちゃんとしてよ」と、親子の会話になり、また舞台の話になると正座に逆戻り、口調も戻ります。自分たちにとっては何でもないことなのですが、周りで聞いている人には奇異に映るようで、家にいた姉でも不思議に思うようでした。同じ会話の中で、親子になったり師匠になったりする。蛇足ですが、「チューボーですよ」という番組の中で、師匠と弟子の会話というコーナーがあって、あるきっかけに立場が入れ替わる。うちの場合師匠と弟子は入れ替わりませんが、突然親子になったり師匠になったり、会話の中で互いに無意識の中にそれが存在している。親が師匠であると言うのは、自分で言うのもなんですが、不思議なものです。いつも親が師匠であると、お互いに息が切れてしまう。数秒ごとに親子になったり、師匠と弟子の関係になったりできるので、一緒にいられるのでしょう。 父の芸に対する考え 舞台においては、大変厳しく妥協しない人でした。私に対してはもちろんですが、自分に対してもそうでした。父は、教わったものをきちんとしていけば、自然にその中に自分の個性が出てくるものだという考えでした。それを、いじってしまうとそこで芸が伸びなくなると言う信念を持っていました。曽祖父や祖父に父も言われたように、父もよく言っていたのは、てと言う字が入る芸は見ていられない。「見てろ・見て」という芸は、人を意識していることで、臭くて見ていられない。だからての字が入る芸になってはいけない。最後に「見ろ」まで、到達すれば良いけれども「見てろ」とてが入ったものは全然違うものだからと。自分が信じて正しい道を行きなさい。「こうしたら人に受けるのではないか」と見ている人を意識するから、てという字が入る。それが父の基本でもありました。現代の工夫しての表現法とは少し違っていますけれども。そういう中では、私も父との間で苦労しました。父は、言ってみれば少々時代遅れの能楽師でもありました。 互いの自立 父とは、30歳頃にけんかをして、それ以来教わりませんでした。父は何も言いませんでした。当主であります六郎先生に稽古を見てもらっていました。私の後援会発足の頃になると、六郎先生に見てもらった後で楽屋へ帰ると、色々と具体的に助言をしてくれるようになりました。父もやっと息子を客観視できるようになったのだと思います。私も父を客観視できるようになった時期だったと思います。互いに5年間という葛藤する時期があって、成長したのだと思います。 関寺小町 父は秘曲といわれる「関寺小町」を1年のうちに2回も舞わせて戴きました。この曲を演ずると言うことは、プロの能楽師として最後まで勉強しなくてはいけないということを示していたように感じました、また、父が大変謙虚な一面を持つようになりました。今まで私に見ていて欲しいなどとは言ったことなどなかったのですが、この曲の時には、六郎先生と私に感想を聞くのです。主に六郎先生に尋ねているとは思うのですが、私の意見も聞いてくれるようになりました。見ていて欲しいと言うのは、六郎先生と私に見せておきたかったからだと思います。芸と言うのは、自分で自分の芸は見ることはできません。それは写真やビデオと舞台で起きている瞬間とは、まったく違うものです。芸の世界では、どんなに功を成り遂げても、誰かに見てもらうという姿勢はとても大事なことだと思います。 能楽師として 舞台においては「関寺小町」も披かせていただき、昨年の10月まで、舞台に立つことができ、お弟子さんの稽古も11月までさせていただきました。舞台人としては、とても幸せな人生だったと思います。師匠としては、偏屈で困った面もあり、また、教えられた面も多々あります。父自身が曽祖父や父、兄の教えを忠実に守ることにより、その中で自分自身の個性を見出していく芸を全うした人でもありました。父はそういう芸の道を切り開いたのだと思います。 パイオニア精神 父は能楽会全体のことを考えていた人でもありました。常に曽祖父や祖父の意向も反映していたのだと思いますが、常にどうしたら、能楽界が良くなるのだろうかと言うことを追求しておりました。戦後すぐに能楽を普及する為に広報ということを考え、公演の詳細を書いたマッチを配ったり、飛行機からチラシを巻いてみたりということをしたり、能楽堂以外会館やホールで演能を行ったのも父でした。当時能は宣伝すると能楽堂以外での公演等と言う考えがなかった。そういうきっかけを作ったと言う先駆者でもありました。偏屈で頑固で古い人間のようですが、そういう面では常識を覆す人でもありました。舞台上での事は、かたくなに古典を守っておりましたが、それ以外のことは、パイオニア精神に満ち溢れていたと思います。能は完成されたものだから能自体をいじる必要ない。周囲の環境などを変えて、一般に普及する公演をすればよいのではないかと言う考えの持ち主でした。日比谷シティにおいて、公演をするかどうかと言う時に、場所を見てギリシアのコロシアムを思い出したそうです。そういった場所ならきっと成功すると考えたのでしょう。そんな血が私にも流れていて、昨年の新宿NSビルの催しへと繋がったのかもしれません。 浮世離れ 父親としては純粋培養過ぎて浮世離れしていて、困った面もたくさんありました。以前に国鉄の頃に切符を買おうと父にお金を預かると、千円札を渡されたので、「これではだめだ」と言うと、一万円札を渡すのです。「違うよ」と言うと父は意味がわからなかったようです。山手線がいくらするか、券売機ではお札が使えない事など全く知らない、世間には無頓着な面が多々ありました。(当時お札で買える券売機は限られていました。) 帝国ホテルプルニエ事件 最後に父の面白い一面を披露します。以前帝国ホテルにプルニエと言うレストランがありました。父と私は、近くで仕事があったため、昼の食事を取ろうと、そのレストランを訪れました。二人とも上着を着ていませんでした。レストランでは、上着着用でないと入店できない旨を言われました。こちらとしては、昼に何も上着を着ている必要はないと思っておりました。店の方はどうしても入店は認められないと言われたのです。そこで父は平然と「それなら裃を着るから、着替え室まで案内して下さい」と言い始めたのです。店の方は、きょとんとして、「裃というとあの殿中のですか」と尋ねるのです。「そうですよ」と答えますと、「少々お待ち下さい」と言われた後、端の席へと通して下さいました。私と父は、おいしい昼食を食べることができました。 完 これは「能を楽しむ会」にての講演をまとめたものです。 梅若 恭行(うめわか・やすゆき、本名・梅若泰男) あらすじ: |
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