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No.20 2004年
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能ってなんだろう 梅若靖記 今年の1月24日、3月に急逝された橋岡久馬氏の「天鼓」の地頭を勤めた。結果的に久馬氏の最後の能になった。以前にも父故恭行について何回か久馬氏の舞台へはお邪魔している。はっきり言って、久馬氏は何とも不思議なシテだ。型も謡も独特で、お世辞にも上手、うまいと言えるシテではない。しかし拝見するたびに何か心地よさが後で残る。何か判らないけれど。今回は特に地頭を勤めさせて戴いたので、印象深い舞台になった。 能の場合特別な曲(例えば三老女)以外、下稽古を共にすることはないのだが、今回久馬氏のお申し出により、一ヶ月位前にお稽古を共にさせて戴いた。それは驚きの連続であった。時には笑いをこらえるのが大変なこともあった。我々一般の能楽師考える概念をはるかに超えていた。 本番前にいつも通りの申し合わせがあった、ハッキリ言って申し合わせを謡わせて戴いて、どう本番謡って良いのか全くわからなくなってしまった。破れかぶれの当日、あきらめて地謡座についた。やがて曲が始まる。ワキ(宮人)に呼び出され、シテ、王伯役の久馬氏が幕から歩み出る。その姿を見てはっとする。まさしく子の天鼓を失って悲しみにうちひしがれる父王伯の姿がそこにあった。下稽古、申し合わせとシテが登場した時、その奇妙さに思わずこらえきれずに失礼とは思いながら笑ってしまったのに。後になり天鼓の亡霊が登場する。舞台に入り、サシ込み開き、常座に立つシテの姿は、若き天鼓の姿。ただすうっとたたずむ姿が、実に美しく見える。 変に構えず、自然に立って居る何の嫌みもない姿。やが弔いを受け、心晴れ舞を舞う天鼓、鼓を打ち、呂水の江に戯れるじつに無邪気な天鼓の姿がそこにあった。一曲終わってあの前の不安が何だったのか忘れる程、実に楽しく地謡を楽しく地謡を謡わせてもらえた。 最近の技術至上主義の能からは、かけ離れている能であったが、本当に心地よい能だった。構えても今風の息を詰めて謡う謡い方とは全く違った。 まさしく能って何だろうと考えさせられた一日であった。 それから一週間後、私は「隅田川」の能を舞うことになっていた。勉強のために先代六郎のビデオを見た。はたまたハッとさせられてしまった。今私たちは常識として行っている演出的なことは、ほとんど何もしていないのだ。それなのにものすごい思いが伝わってくる。例えば船の中で、船頭の語りを聞いているところで、自分の子の名を聞いた時は、今は一度驚いたように面を上げ、それから面を伏せ、語りに聞き入るようにするのだが、よく見ていなければ見落とす程、ほんの少し肩が落ちたようにしか見えない。それなのに見ていた私の目からはどうにも止めることの出来ない涙が溢れ出てしまった。おそらくそれは六郎の動き(型)によって感じたのでなく、心の中にあるものが溢れ出てそれが見るものに伝わったものだと思う。 能っていったい何なんだろうとますます判らなくなってしまった。 今は技術至上主義で、高い技術で演じることが、最も人々に感動を与えることが出来るという考えだが、本当にそうなのだろうか?高い技術を持つことは、とても大切であることには違いないが、その余り本来の人の心を伝えることが、おざなりになってしまっているのではないか。ある方が能は舞手の感情で舞ってはいけないというようなことを言われていたが、私は能は曲を通して舞手の心(思い)表現するものだと思っている。だから同じ曲を舞っても、その時の舞手の心のあるようによって、その都度違って見えるから能はおもしろいのだと思う。 だいたい能は演劇なんだと言い出した頃からおかしくなったように思う。演劇なんて概念は元々日本にはない。古く日本の文献に演劇などと言う文字はお目にかからない。日本ではこういったものを芸態と言っていた。能は古くは態と書いていたようだ。民俗学者の柳田国男が言うように芸はワザで態とは身体と心のありようであり、芸能とは身体で心を表現すワザのことである。少なくとも日本においてはそうなのだ。 演劇なんぞというわけの解らないものを持ち出すから演出だのわけの解らないことをするのだ。祖父実はての字のはいる能なんか見ていられないと、よく父に言っていたそうだ。「見て、見てろという能は客を意識したもので、そんなものは能じゃねえ。能は自分自信の表現であって決して客を意識してはいけねぇ」と言っているそうだ。「一見、ての入る能は上手く見える。でもそれは邪道だ」と言っていたという。てとはまさしく演出のことである。こうしたらお客さんにはとくわかるだろうとか、よく見えるだろうというのは能において、そんなものは邪道なのである。「舞手の心から溢れるものを表現すればそれが一番なんだ」と言っていたという。 よく考えるとこれは日本の能だけではなく世界の芸術にも言えることではないだろうか。クラシック音楽にしてもバレエにしてもオペラにしても、近年あまりにも技術至上主義になりすぎておもしろくなくなってしまっているように思えてならない。 ある日本人女性のバイオリニストが、教えを請うためにバーンスタインのもとを訪れた時、彼女の演奏を聴いたバーンスタインは、「あなたのテクニックはテンポも音も全く狂わないマシーンのように素晴らしい」と誉めてくれたそうだ。そこで彼女は「これから私はどのように練習をしていったらよいのか」と尋ねたそうだ。バーンスタインは「日本で教わったことはすべて忘れなさい。音楽とは人の心を表現するものです。」 もう亡くなったが、私はウラジミールホロビッツというピアニストが大好きである。私は幸運にも彼が晩年日本を訪れた折の演奏を聴けたのだが、素晴らしいものだった。しかし翌日の新聞の評論家の先生方の評は無惨なものだった。「テンポもずれてミスタッチも多く聞くに堪えない演奏だった。骨董品以外の何物でもなかった」と酷評されてしまった。確かに80歳を超え、長旅の影響もあっただろう。ミスタッチもあったが、彼の豊かな表現力と豊かな音色の前にそれが何なのだろうか。特にショパンの曲の演奏は、亡命を余儀なくされた二人の心の共鳴が感じられ素晴らしいものだった。そんなにメトロノームのようなテンポと正確なタッチが大事なのだろうか。そう考えるなら日本の○○○○は、世界一のピアニストかもしれないが…… バレエもしかりだ。なぜギエムが良いのか全く判らない。あれはほとんど器械体操だ。確かに彼女は新体操の出身だが、ポントワやフォンティーンのバレエはそんなものではなかったと思う。残念ながらポントワやフォンティーンは、映像でしか見たことはないのだけれど。 私はバルシニコフという男性のダンサーが大好きだ。彼はものすごいテクニシャンであるが、花を持っているのだ。普通テクニシャンに溺れると花を失ってしまう人が多いだが。共に二つを持てる事が理想なのかもしれない。 確かに技術力は大切なものだが、あまりにも技術至上主義になってしまうと技術を見せることに満足してしまい、ともすると舞手の感情を否定し舞うことになると思う。本来テクニックは、その曲を通して演奏者の心を伝えるためのものではなくてはならないと思う。それが近年価値観が逆転してしまっているように思えてならない。 |
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