No.23 2006年
初シテ経政
島田昌紘

 平経政。私はこの名前が大好きです。なんとなく、にこっと笑ってしまいそうな気分になります。
始めに靖記先生に「猩々」をやると言われていましたが、しばらくし、電話がかかり、「経政」をやる と言われました。
 さっそく祖父の謡本を手当たりしだい探していると見つけました。ひらいてみるとシテとワキしか書いてなく、今まで子方しかやってきていない私にとって「初めてのシテをやるんだ!」と思うとなにげなくわくわくしてくるのでした。 初めてのけいこのとき、謡を習いました。さすがシテ、とばかりにたくさんあり、一度では覚えられません。先生にテープをとってもらい、家でテープに合わせて毎日やっていました。数日すると いきなりできるようになり、「ひとつのカベをこえたぞ!」と思いましたが、こわさはまだまだ序の口で、このあと一番高いカベがありました。そうしてついに動きの練習に入っていきました。
 最初の動きのおけいこは、一回で終わりました。一番つらい部分は、三分くらいずっとつまさきを 立てて座るところでした。痛くなってついつい顔がひきつってしまいました。私はどうしても立つ時に、おじいさんのようにおしりをつきだして立ってしまうので、先生から「スクワット五十回と、静的腹筋十秒十セットすること。」と言われ、さぼったりしてしまうことも何度かありましたが、それでもこつこつとやっていると、だんだんスムーズに立てるようになりました。  しかし、四ヶ月で覚えるのはまだまだ未熟の私にとって大変に困難でした。
 「オレが覚えてんじゃない。オ前が覚えるんだ。」と何回も先生に言われていき、少しずつ覚えていきました。
 「平経政って知ってるかい?」
 「知らない。」
 「敦盛なら知っている。」
 学校の友達に聞いてみましたが全員の人が「知らない。」でした。私は「そんな有名じゃないのを私がやるのか・・・」と思いましたが、むしろ平経政を少しでも知ってもらえるチャンスだと言うことに気が付き、やる気が出ました。 先生とよくやった部分は刀を持つ所です。「どうせならカッコ良くやろうぜ。」と、先生はよく言いながら教えてくれました。それに私はどうしても刀をぬくとうれしくなり、笑ってしまうので、先生に「こわい顔の練習をしろ。」と注意されました。それからというもの、まゆをしかめる練習を登下校中にやったりし、なれてきました。
 なぜか私は能の一番基本のすり足をしなくなってしまい、先生から指導を受けました。また、能のビデオを見て、プロの歩き方を参考にしてみました。本来なら、私にご指導してくださっている鼓の曾和尚靖先生に打っていただくように御願いしましたが、当日に仕事があるというので、別の先生の森貴史先生に打っていただきました。曾和先生に打ってもらえなかったのはちょっと残ねんなことでしたが、「プロになるとそんなにいそがしくなるのかな?」というふうに思い、さらに「がんばらなくっちゃ。」と気合が入るのでした。いろいろ日々のおけいこもし、覚えてきました。学校の運動会も早たいして、梅若六郎先生のご指導を受けに能楽堂に行きました。
 一応の装束を着け、橋がかりに立つと、おけいこなのになぜかきん張しました。無我夢中でやっている時に、とうとうクセの終わりにきました。「あとはカケリだ。」と思った時にそでをかけるのを忘れてしまいました。こういう時にはそでをはらう動きをするのか不安になりましたが、そでをはらわずにやりました。後で靖記先生に聞いたら「やらなくていい。」と言われ、ほっとしました。カケリに入りましたが、でだしのかけ声が靖記先生とちがうので、少し動揺しましたが、何とかやり過ごしました。後で聞けばちがう流派だったと聞き、同じカケリでも大きな違いが流派によってあるのだと感じました。次の日の申し合わせではひとつも間ちがわずにでき、快調だったと思います。その後、靖記先生ついていき、梅若家のぼだい寺をお参りしました。ずいぶん墓が多く、たくさんまわりました。「成功するようあたたかく見まもってください。」と願いぼだい寺を後にしました。その前には後えん会の皆さまにあいさつをしました。
 とうとう本番がやってまいりました。気分は絶好調で、不安などほとんどありませんでしたが、橋がかりに立つと、今まで安心していて、不安などなかったのが爆発してしまい、すごーく不安になったのときん張がぶつかり合い、なんとも言えないくらいになってしましました。 「おまーく」 だんだんお客さんが見てきます。 「ああ神さま。どうかトチリませんように。」  その思い通りに、順調に進んで行き、ついにカケリにきました。正面向くその足拍子はしましたが、正面を向くのを忘れてしまいました。「あっ!!」と思った時はもうおそく、しかたなく足をかけて正面を向きました。そしてしばらくしたら鏡の間に入っていました。幸い大きい間ちがいもなく、よかったと思います。

 「おがたま」を支えてくださった人達、またたくさんの先生方をはじめとする皆様に深い御礼申し上げます。
(仮名遣い等ほぼ原文のまま)
島田昌紘(しまだまさひろ)(11歳)次男 平成6年3月14日生まれ
梅若靖記の甥
平成12年日比谷シティ夜能 能「鞍馬天狗」花見子で、初舞台


橋弁慶 笛之巻
シテ:   常磐御前・武蔵坊弁慶
子方:   牛若丸
ワキ:   羽田秋長
間狂言: 弦師 都ノ者
季節:   九月
場所:   前場  常磐居
       後場  五条橋
あらすじ
源義朝と妾常磐の間の第三子牛若丸(子方)は、鞍馬寺に預けられていたが、学問には興味を持たず、抜け出しては夜毎に五条の橋で人を斬っている。心配した家来の羽田十郎秋長(ワキ)は、彼を母親(常磐御前)のもとに連れて行って相談した。
母(前シテ)がその不都合をせめて諄々と説くとさすがに牛若も手を合わせ、涙を流して誓った。さてしかし牛若には大切に持たせられている笛があり、その意味が判らないので改めて母に尋ねると母は教えた。
この笛は弘法大師から、遠く伝わるもので、もと支那へ渡った商人が持っていた笛なのだ。この笛の蝉(歌口の裏の面に当る)のところを巻き隠してある錦の布を解いてよく見ると、虫食いの後が文字の態をなしている。それは「一萬五千三百余年の後、弘法大師の御手を経て、その後の義朝の末子牛若の手に渡るであろう」と実にはっきりと読めて、何か将来を暗示するようだ。初めてみせられた牛若はこれを大切に戴いて、明日は寺に帰ることを決め、羽田を連れて五条の橋へ月見に出かける。(中入)
五条の橋で通行人を待ち伏せしていると、夜明け近くになって、黒川縅の大鎧に身をかため、長刀をひっさげた大男(弁慶・後シテ)が、のっしのっしとたやって来た。
牛若は薄衣を被いて待った。弁慶は相手を女だと思って、出家の身だから言葉もかけずにさりげなく通った。牛若はやり過ごしてから長刀の柄を、はしっと蹴上げた。驚いた弁慶が斬りかかると牛若も打合せ、遂に弁慶は長刀を打ち落とされ、あきれはてた。降参した弁慶が名を尋ねると、これが源家の御曹司であった。二人の堅い主従関係はこうして生まれた。
橋弁慶笛之巻は、観世流だけにある小書き(特殊演出)である。
橋弁慶はよく上演されますが、笛之巻は、まれにしか上演されません。
2月19日に梅若会定式能にて、甥島田昌紘と勤めさせていただきます。



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