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No.25 2007年 4月12日 シアターX(カイ)にて
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シンポジウム「時代と空間を越えた感性」より 第2部
アレーグル:ヨーロッパの演出家の一人として、非常に日本の伝統的演劇には魅せられています。ヨーロッ パ特にフランスの演劇界というのは、伝統的な演劇というものを現在でも保存していません。といいますの は、とても昔から演劇もありましたし、修道院等の中で行われていた演劇活動などもあったのですが、そう いった物の形が残っておりません。コメディーフランセーズは、モリエール作品を致しますが、昔風でやる ので同じ形で残っていません。そういった意味で、日本の伝統芸能・伝統演劇こういったものが、核の形と して伝承なさっているということに非常に興味を持っています。今回私の作品をこちらで見せて頂きまして 、やはりその中で日本の伝統演劇から、何か栄養を採っている、影響を受けている部分があるのではないか と思っております。日本のこういった伝統演劇と現代演劇の中に、「渡す」橋みたいなものがあるのか、現 代の演劇の中の技法・技術として、伝統演劇から受け継いでいるものがあるのか、まずそういった質問から 始めたいと思います。 梅若:能は、変わらない。約700年世阿弥・観阿弥が、能を編み出してから変わらないと言われているのですけ れども、実はものすごい勢いで変わっています。その時の観客や人々の気持ちとかそういう物によって、ある いは政治的な要因によっても変化を受けています。実際能というのは3600曲ぐらい書かれております。 現在上演されている曲目数が約200曲。 アレーグル:どうして?3600曲が、200曲になるのは? 梅若:やはりつまらなかったり、あるいは政治的な要因が非常に多いですね。例えば織田信長の時代には、 高野山との問題があったりすると、高野山を賛美するような曲は上演を禁止され消えていくとか。面白い面 白くないだけではなく、その時の為政者や政治的な要因によって消えていったものもたくさんあります。今 上演されている200曲の中でも、それがすべて世阿弥の時代から700年続いているわけではなく、その 多くは江戸時代に書かれたものです。3分の1ぐらいは江戸時代に書かれています。その上に今現在も年間 に10曲から20曲の新曲が書かれています。只、おそらく100年後に残るのは、先ほどの割合からいう と1曲か2曲しかたぶん残っていないと思いますけれども。 天野:現代でも新しい曲がどんどん出ているということですね。 梅若:はい 天野:新作というのは作者とか脚本家みたいな方達というのがやはりいらっしゃる。 梅若:ええ、いらっしゃいます。 岡田:能は同じ舞台の上に役者・人物が出てきて、音楽も並んでいて、コーラスも並んでいて音楽劇でも舞 踊劇でもありますね。それが全然指揮者がいなくて、ちゃんと行われるということが、とてもすばらしいこ とだと思います。そういうことが、現代のものに通じるものが何かあるのではないか思うのだけれど。 梅若:例えば弦楽四重奏とか、指揮者がおりません。バイオリニストが、だいたい弦でタイミングを計りま すけれども。ですから私達にとってそんなに不思議なことではないのですが、そう言われるとそんなに不思議なこと なのかなぁと思ってしまいます。 岡田:あぁなるほどね。 梅若:後は舞台の上の空気を、お互い読み合うというか、無意識の伝達という部分。 岡田:無意識の伝達ね。 天野:無意識の伝達というと、やはり健翔さんも翻訳をされていて、異文化のものを日本に意訳されるご苦 労というみたいなものもあるかと思うのですけれども、伝達と言うことだけで、考えますとどういった形な のでしょう。 山本:能の話に入っているので、そこからの方がいいと思いますので。今日は2つの話を聞きたいと思ってい ました。一つは劇場にてのもののあり方について。アレーグルさんが、先程からおっしゃっていること。能 舞台に象徴されるような一つの舞台というか装置としての舞台。それも後でお話を聞きたいのですが。もう 一つは、俳優の身体と言うことで。ちょっと話がずれますが、アレーグルさんにとってどんな俳優を想定し て書いているのか、いい俳優さんというのはどんな俳優さんなのかというのを、ちょっと知りたい。梅若さ んとちょうどさっき偶然お話していたのですが、姿勢の話を。クラシックバレエの立ち方と、能の立ち方、ま るで両方のクラシカルなものの東西の立ち方というものについて、実はとても共通していたということを梅 若さんから聞きたいのですが。私自身も俳優たちとしたワークショップで話していたことと、まさに同じよう なことを感じられたので。少し話がずれるかもしれませんが、まず俳優の身体性ということでいえば、一番 基本ですから。人が立っていると言う姿について東西で、クラシックバレエと能ではずいぶん違うと思うの ですが、梅若さんに姿勢についての話を聞きたいなと思います。 アレーグル:この身体性というのは非常に興味深いお話だと思います。コメディフランセーズの俳優という のが、よく昔から言われてますのが、腰から上だけの俳優というんですね。座って腰から上だけでちゃんと 前に向かうと、腰から上はちゃんと演技するけれども、立つと本当にひどいと言われております。例えばヨ ーロッパの近代演劇の中でサラベルナールという非常に有名な大女優と言われた方がいますけれども、彼女 なんかは動くのではなく、立って前に向かって「声を発する」「台詞を回す」そういった物は非常に優れて いたけれども、「動き」その身体性というものが確かにあったかどうかは不安なところです。梅若さんの作 品「能」をビデオで見せて頂いたんですけれども、確かに足の先から指の先まで身体というものが動いて、 そこに演劇がある。そういった意味で西洋の演劇の身体性というのは、本当に最近始まったものであって東 洋のもの日本のものとはまったく違うものあります。 山本:違うようでいて、実は同じだったのではないかというお話を梅若さんにしていただきたいのですが。 梅若:昔アメリカ人のバレエダンサーの方を教えたことがありまして、ウィスコンシン大学のドクターでヌ ーベルのバレエダンサーを教えたのですが、最終的に話していくと非常に同じところに行き着いていきます ね。一つにまず腕の構えなんですけれども、座布団を脇の下に挟んで、それが落ちないようにしなさいと僕 らは教えられました。それをダンサーに言ったら、我々は卵が割れないように挟む。僕らは紐で、前後左右 から引っ張られ、むしろ上から吊られているような感じ。そして前後の紐で、左右のバランスを保ちながら 、前の紐を少し強く引かれると、前へ進んでいく。逆に後ろへ引かれると、後ろへ下がっていくという。そ ういう動きをするんだという話をしたら、彼らも上からクレーンで、吊り上げた姿で立つ。僕らはよく舞台 に出る前に背伸びをするのです。(踵をあげる動作)これを下ろして構える。ちょうどそうすると重心が親 指の付け根にくるんですね。重心が後ろにあると前に動けないのです。親指の先にあるから移動ができる。 バレエも普段は地面にきちんとついている。能は爪先立ちはしませんけれども踵を付けて、必ず地面に足が ついている。そこでバレエダンサーと私との結論は、バレエはジャンプしてる時の姿勢、能は着地した時の 姿勢だ。動と静という西洋と東洋の違いがそこにあるのではないか。 アレーグル:非常に今のお話びっくりいたしましたし、同時に身体が一気に変わる姿を見せて頂きましたの で、驚きました。一つ能の方はどうやって学ばれるのか。小さな時から始められるのでしょうか? 梅若:私の場合は、ずーっと代々もう27代から28代に亘って、日本の時代で言うと安土桃山時代の頃か らの家なので、3歳の時に初舞台を踏みました。只、3歳の子供がやりたいわけではないですから、お菓子 で騙されて…子供の時は周りの人はいつも優しいし、いつも褒めてくれます。僕らは発声もありますので、 だいたい声変わりが終わる18歳位からが、トレーニングになるのですけれども。そうすると突然周りの態 度が変わります。そして修行の日々が始まりますと、「これからはおまえは一人前になるまで人間として扱 わない。」と言われます。早く人間に戻りたいんで、一生懸命勉強するといのが、我々のメソッドです。( 一同笑いと拍手) アレーグル:一人前の男かどうかというのは自分もわからないのですけれども、まだフランスで劇作家をや っている方が、能役者の修行をするよりいいなぁと今思いました。一つ今見せて頂いた動作、アニエスベラ ドンヌ中で闘牛の話をやっておりますが、闘牛をやる人の動きが非常に能の動きと似ているように思いまし た。と同時に非常に動きがしっかりと決まっている。その中に一つの意志的意味のある動き、動きの中に意 味がある。そういったところから闘牛士と伝統演劇の方の共通点というものがあるように思いました。 ちょっと質問があるのですが。 俳優として現代演劇の中で、すでに何か演技なさったことがあるのか、今後ともそういったご希望があるの かその点をお聞きしたい。 闘牛士の動きのことと現代演劇の俳優としてのご希望があるかをお聞きしたい。 梅若:闘牛士というのは騎士道につながりますし、我々能楽師というのは儀式的な時に能役者になるので普 段は武将でした。私の先祖は明智光秀の家臣で本能寺で戦死しています。 現代演劇へ何となく参加したり、演出補助みたいなことはしたことがあるのですが、私はあまり…以前フラ ンスの映画に出ないかというお話をいただいたこともあるのですが、能役者は不器用な方がよいと思ってい るので、私はそういう生き方をしようと。さっきどんな役者がよい役者かという話が山本さんの方からあり ましたが、能役者で一番いい役者というのは、何にもしないでいることのできる役者。私はそうなりたいな と思っております。もし舞台の上で最初から最後まで座っているような役を頂ければいつでも参加させて頂きます。 天野:今梅若さんがおっしゃったみたいに何もしないという、一端外から見ると何もしていないように見え るのですけれども、中はものすごく動く。私どもは俳優が岡田先生にご指導頂く、ベラ・レーヌ・システム という演技システムのメソッドの中に出てくるのですが、意味のない台詞。外は意味がなくても中はものす ごい愛情に満ちていたり、褒めていてもものすごく憎しみであったりという。表現の中でも静の中の動とい いますか、そういったものがあるのでしょうか。 梅若:隅田川という曲がありまして、母親と子供が生き別れて母親が京都から東京の隅田川まで子供を捜し てくるのですけれども、実は子供がそこで疲れて死んでしまっている。お墓だけが残っている。その子供の お墓と母親が再会するという場面があります。私の伯父の先代梅若六郎が出演し放送されたビデオがある のですが、その隅田川の塚に(お墓)向かって後ろ向きに、完全に観客に背を向けて塚に向かっているだけ の場面が5分位あります。私は何回見てもそこで涙が止まらなくなります。たぶんそれは心の中の演技とい うだけでなくて、その人間の生き様とか、そういうものがすべて出てくるからだと思うのです。アレーグル さんの作品で前の「人生のはじまりは劇場から」「急流の男」を見せて頂き、今回の「アニエス・ベラドン ヌ」の通し稽古も見せて頂いたのですけれども、彼の作品の場合はその劇の中の登場人物のキャラクターと 共に、演じている方のバックボーンが何か見えてくる。それがすごく不思議で、人の色濃い人生がある。演 じている役柄と物語上のバックボーン共に役者の人間そのものの生きてきたバックボーンが重なって見え てくるという。逆に質問させて頂きたいのですけれど、そういう意識はお持ちなのでしょか? アレーグル:この点が、今回このシンポジウムの面白い点であるかと思います。というのはやはり演劇とし ての能、それとヨーロッパの演劇の書き方の違いというところがここで見えてくると思います。なぜこうい ったことを今ここで、考えるのは重要かそこから話します。能とか歌舞伎も少し見ただけですけれども、そ ういったものを見てますと非常に正確にやるという技術的な部分があるのと、あと家族とか家系、家を通じ て培ってきた伝統そういったものがあるかと思います。能や歌舞伎の演技をなさる方は、非常に長い間技術 を積んで勉強し、修行を積んでいらっしゃると思いますが、フランスで私のこういった劇作を書く時は、と ても優れた劇団に書くこともありますけれども、同じ戯曲をアマチュアのけっして技術のない人達も演じる ことがあるんです。そういったことも念頭に置かなければなりません。ですからこういった講演会とかシン ポジウムとかで、よく観客の方に話すんですけれども、台詞と台詞の間にある沈黙が重要だと話をしていま す。ですから梅若さんは沈黙のお師匠さんじゃないかと思います。ですからすばらしいなぁと思っているん です。 梅若:普段は話が止まらないのです。ですから舞台の上では我慢しているのです。(笑い) アレーグル:それでは舞台の上の沈黙のお師匠さんにさせて頂きます。 天野:それではここで、梅若さんのお持ちいただいたビデオを交えながらまたシンポジウムを進めていきた いと思います。 梅若:定家という曲のダイジェストなのですけれども、式子内親王と藤原定家が恋をしたという。これは実 際あった話かわかりません。能の中ではそういう行為があって、許されない恋によって式子内親王が、葛藤 に巻かれるような死後の苦しみがあり、それを解いてほしいといって僧侶の前に出てきます。僧侶が祈って その苦しみを解かれるという曲なのですけれども。定家は俊成の子供ですし、式子内親王は俊成の歌のお弟 子さんですからあり得たかもしれないですが。年が違うといわれてますが、7つ位なのですね。史実である かないかは別の問題としてそういう世界に入って見て頂ければと思います。 (定家ダイジェストを見ながら) 曲が始まる前に囃子方が登場してきます。能はここから始まっています。元々能というのは祭りの庭から始 まったもので、儀式的な要素が多いのです。 天野:神儀ということでしょうか? 梅若:能は元々は神事からで、それが段々と演劇化し発展しました。今ここの舞台の上と観客席はこの世な のです。 天野:この世。 梅若:幕の向こうがあの世なのです。 天野:この世とあの世を結んでいるのが、あの橋のようなものなのですね。 梅若:橋がかりといいます。昔は祭りの庭に神様をお迎えし、そこの前で演じられたものです。舞台背面に 松の絵がありますが、これが寄り代といいまして、ここに神様をお迎えして神様の前で演じるというのが元 々の形です。それから4本の柱が舞台上に立っています。4本の柱というのは、清浄なところを、非常に清 い空間を作り出すための柱なのです。日本には諏訪大社の御柱という神座(かぐら)というものを作り4本 の柱を立て、そこに神様を迎えるという風習があります。4本の柱の中は聖域になると考えられています 。僧侶役のワキが登場してきますが、能ではこの僧侶の役が観客の代表者となって、あの世から来た人と唯 一言葉を交わすことのできる人なのです。観客が聞いてみたいなと思うことを、ワキが登場してくるシテに 、だいたいあの世からの人が多いのですが、話しかけて話が展開していきます。楽器も能の場合は、すべて 打楽器です。大鼓、パチンと高い音がしますが、馬のお尻の革を使っています。ポンポンと湿った音のする のが小鼓です。馬のお腹の革を使っています。この曲には登場しませんが太鼓という横に置いて鉢で叩く楽器は牛の皮を使っています。すべて打楽器です。ヒーと音がする笛は、打楽器ではないのではないのかと疑 問に思うかもしれませんが、実は能の能管といいますのは、ピッチが取れないのです。要するにドレミファ 等という等間隔にピッチが、構造上取れません。器用な人でビバルディの四季などを吹いたりする人もいま すが、普通は吹けません。能管の場合には歌口という吹き口があり、吹き込むところと指を押さえる間に喉 という非常に細くなっているところがあります。そこから高速な息が出て行く構造で、普通の西洋楽器や、 日本の笛とも違います。 シテの式子内親王の霊が登場してきますが、あの世からこの世に出て来て、自分の苦しみをワキである観客 の方に訴えています。能の舞台というのは、舞台として構造上確かに高くあるのですが、実は世界観として は、観客席と同じ世界観の中にあると考えられています。 天野:お面の表情というのは、私たち素人ではまったくわからないのですが。お面と想像するのは縁日のお 面で穴が空いていますが、能のお面はどのような構造になっているのでしょうか。 梅若:もちろん穴は空いております。空いていなければ息もできませんし、視覚も取れません。ただ穴が大 変小さいので見たいところは見れません。ただこれが一つの能の効果を生むのです。見えないことによって 、ものすごい集中力を生みます。見えてしまうと集中できませんが、見えないことによっていろいろな見え ない世界がちゃんと自分の中で見えてくる。役柄の中に自然に入れます。非常にパラドックスなものがあり ます。 天野:立っている姿の中に非常に妖艶さと静の中での動を感じますが。 梅若:スカッと立つのは立ちやすいのですが、静かに立つというのはかなり負担になります。面というのは 、すべて左右不対称に作られています。 天野:平面のシンメトリーではなく、わざわざ同じ面であっても左右不対称ということですか。 梅若:ええ。目の高さも違いますし、鼻の鼻筋もまっすぐではありません。口角も左右どちらかが上がって います。それがあるために顔を動かした時に人間のような表情が生まれてきます。もし左右対称に作ってし まうと、いわゆるよく能面のような顔という平らな顔になってしまいます。左右不対称に作られているため に、豊かな表情になります。先程話が途中になってしまいましたが、能の楽器はすべて打楽器であるという ことをお話しましたが、打楽器というのは霊を呼ぶ、あるいは神様を呼ぶ力があると、東洋の人たちは考え ました。ですから必ずほとんどの能の場合には、シテがあの世から登場してくる時には、打楽器が演奏され その音によって呼び起こされて、この世になっていく。そういう演奏法がとられています。これはアフリカ とか東南アジアでも神様を呼ぶ時には多く見られます。 天野:インドネシアのガムランなんかも打楽器で神を呼ぶのがありますね。東洋の独特なものですね。 梅若:西洋にもあるのか後ほど聞けたら聞いてみたいですね。面の話なのですが、左右不対称にできていて 、目の形は四角になっています。目というのは丸いと思われていると思いますが、瞼が下がっていて、実際 の人間の目の形というのは四角なのです。鬼の面とか怖い人の面だけ、目を剥いていて丸くなんです。 アレーグル:どのくらい前に面を付けるのですか? 梅若:人によって違いますが、私の場合は10分間ぐらいは静かにしています。 アレーグル:どのくらい前に準備をするのですか? 梅若:それは30分くらい前です。 アレーグル:もしかしたらお答えがない質問かもしれませんけれども、人間、特に俳優というのはある種の 自分のエゴ、自意識の中であると思います。例えば俳優になって有名になりたいとか、自分は劇作家として ある程度知られるようになりましたけれども、能役者という方は俳優として有名であってもマスクを付けて いらっしゃるから道を歩いていても、能の方だと声をかけられないかもしれない。そういったところのエゴ という問題というのはあるのでしょうか。 梅若:一つは悪いことができます。(一同笑い)あともう一つ能の表現法として、個性を消すことによって、 その人の本当の見えない内面が、体の外に香りのように出てくる。そういう役者が一番いい役者であると思 います。もちろん有名にはなりたいですけれども、個性を消すことによって自分しかないものが出てくると いうことの中で、普段わかってもらえなくても舞台の上に出てきた時に、あの人は、梅若靖記だとわかって もらえるそういう役者になることが私の望みなのです。 アレーグル:とてもよいお話し頂きました。ありがとうございました。 梅若:先ほど楽屋の中の話が出たので、写真を持ってきましたのでお見せします。これは翁という特殊な曲 です。世阿弥の時代からあったもので、非常に儀式的なものです。我々は完全に神事として考えています。 演じる前日から精進潔斎をしまして、舞台の上でクセ事間違えたり、何か事故があるとよくないことが起こ ると言われています。ですから非常に神経を使って演じます。楽屋の中に神棚をちゃんと設えて、御神酒と お米とお塩を口に含んで自分を清めて、それから舞台に出て行きます。そういうことするのはこの曲しかあ りません。皆さんが能楽堂に来ても見る機会はありませんが。 天野:それは能の元々の由来が神儀というところからきている。安土桃山の時代から伝統として引き継がれ てきたことでしょうか。 梅若:翁という曲は平安時代からあったようですから。世阿弥も花伝書に書いていますけれども、これは 能の神髄であるということ。ですから一般的な曲を演じる時でも、我々は単なる演劇としてではなく神事の 延長として、そして面を付ける時は必ず、鏡の前で能面に一礼をしてそれから自分の顔に当てます。特に衣 装の中でも面に関しては神聖なものであるという認識でおります。 山本さん何かありますか。 山本:先程の現代劇と古典との伝わり方という意味で、特に日本でも現代劇の俳優というものは、一つのメ ソッドを模索していて、岡田先生がベラ・レーヌ・システムという海外の方法を持ち帰り、我々に機会を与 えていただきました。もう一つは古典の勉強をする。その中で独立した日本人の俳優がなかなか見つからな いまま今日に至っているなぁと思っています。先程腰から上の俳優という言葉が出ましたが、名優にしてさ えそう言われてしまう。日本はまさにそういう意味で腰から上の俳優が多くて。自分としては一つの俳優の 訓練としては、さっきおっしゃっていただいたようなパラドックスシーンを見つけるという事がすごく大事 だと思うのです。体のセンターが同時に感覚のセンターにつながっている。日本語には語彙が豊富で、「息 を合わせる」「腰から上の役者」「板に付く」そういった日本語の語感の中から発見していく。それと同時 に西洋の演劇をやっていく時にも、語感を体のセンターというものの繋がりの中で俳優は役を作っていく。 翻訳したり演出したりする時にもですが。翻訳は日本語の行いですから、裏に海外の劇作家の感覚をもう一 度日本人の感性に訳すという作業だと思うのです。一番肝心なのは呼吸だと思うんです。岡田先生もあるか もしれないのですけれども、自分が翻訳していると先取りすることがある。面白い作品だと追い抜いて思わ ず書いてしまい、後で読んで気づくことがあります。それは劇作家の息が残っているから訳せたんだなぁと 思います。上手い役者という言い方も多いのですけれども、息を合わせられる俳優というのは、結局は己の 体をいかに崩すかということで、訳する時にも常に考えています。 岡田:山本さんが持たれているグループショウデザイン舎はとても面白いメソッドで、伺った若い人達が、 健翔さんのところはとっても面白いと。オーディションを一度ご一緒させていただいたことがあるのですが 、その発想がとっても面白かったです。一つの言葉をいろいろなシチュエーションで演技させる。とても面 白い発想ですね。翻訳のものというのは外国のものだったりしますが、山本さんの演出を見ていつも感じる のは、根底にあるものがしっかり日本的で、精神面が非常に日本的な点です。それは難しいことだから私な んか勝手に解釈する。 山本:結局日本てなんだろうと。先程の行き着く感じ東と西というもの、陰と陽。先程アレーグルさんも言 われましたが、アレーグル作品がかえって東洋でうけているみたいなこともあったり、実は東と西とか陰と 陽の相反するもの。陰の中に陽があって陽の中で陰があって。常に相反するものが存在することで、それは 究極は生と死だと考えています。今日このお二方に出会うこともまさに陰の中に東西があったり、相反する ものがマッチし、劇場がある。何もない舞台に能は輝く事が存在するような仕掛けになり、アレーグルさん は劇場は神聖なものであると言われている。「はじまりは劇場から」は劇場が再生の場になる。だから日々生 まれ変わっていくという人間の命が、まさに劇場に集約されていて1日が生まれる。先程の精進潔斎して、 この日この一日の能舞台で生まれていく。能というのはそういった僕らの思いを集約している場所だと思う 。むしろそれを日本人の演劇人よりも、逆に海外の演劇人が発見し、我々にもういっぺん学ぼうとすることがある よといわれてきています。自分が今感じてやっていること目指していることもそうで、だからこの出会いは 面白いと思います。 アレーグル:今のお話に賛成です。俳優の身体というのは、この世界をはかるベクターだと思っています。 (前半部分録音より一部校正させていただきました。) 梅若靖記大学講師デビュー 去る5月25日に母校成城大学にて「能の歴史について」90分授業を1時間持つ機会を得ました。近頃の 学生はあまり反応がないとの心配をよそに、授業終了後も熱心な質問攻めにあいました。本人の感想は、大 学の先生は深い知識を持たなければ、どこからでも質問に答えられるようにしなけれはならないので、たい へん。でも機会があれば、半期ぐらい持ってみたいとのこと。 |
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