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No.27 2009年 |
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「表現についての一考」 梅若靖記 足したり引いたりそれぞれありますが、日本の文化はへりくだる文化ではなかったのではないでしょうか。 例えば贈り物をする時に「これはつまらないものですが・・・」等といって贈り物を渡しましたが、むろん本人は本当につまらないものなどと思って用意したわけではありません。最近では欧米化の影響なのかオープンに表現することが多く見られると思うのです。贈り物をする時は「これはとてもよいものですが」となることになります。これはこれでよいとは思うのですが。オープンに表現することによって本質が見えなくなってしまってはいないでしょうか。 元来「能」というものは内に秘めたるものを表現するものではないでしょうか。一曲を表現するのに極力抑えた動きや人数にすることにより、大きな世界観を出すものではないでしょうか。 例えば「居クセ」などと言ってシテをわざと舞台の中に座らせて、動かない。地謡だけが運んでいくことにより限りない世界観を見せているのではないでしょうか。地謡や詞章通りに動くことは、少し幼稚な表現のように感じるのです。以前は自然に伝わっていたことが、生活習慣や慣例が変わってきたことによって理解されないかもしれないと演ずる側が配慮して先回りすることはいかがなものかと思うのです。何も見ている側にマニアックなことを要求しているのではありません。難しいことを理解できることが良いことだとも思いませんが、あまり説明的になってしまってもイマジネーションを邪魔することになってしまうのではないかと思うのです。 昨今海外でも日本食ブームですが、例えば落語でそばを食べる場面を外国にはそばを食べる習慣がないから、或いは音を立てて食べることは下品とされるから、フォークで食べるシーンや音を立てないように演じることはしないと思うのです。 能は大道具などはなるべく省き、何か象徴的なものを出すことにより見ている側に様々なことを想像させるものではないでしょうか。赤い色といっても見ている側が思い浮かべる赤が同じ色でなくてよいと思うのです。象徴的では解らない伝わらないからと言って具体的なものを出して、表現をすることによりイメージをふくらませる幅が少なくなってしまう感じがします。そうして成り立ってきた演劇であると思うのです。見ている人の置かれている立場や状況によってまったく違う受け止め方をしてよいものであり、普遍的なテーマで成り立ってきたものだと思うのです。あるテーマに対してボールをポーンと投げかけることによって、受け取るも受け取らないも自由でよいのではないでしょうか。そこに正しい答えや見解を見いだす必要もないと思います。能は約700年綿々と続いてきたものですが、その時代時代によって少しずつ変化をしていると思われます。現代は説明的で動きも大きくした能が好まれていると思います。また時代が移っていくことによって変化していくのでしょう。振り子は振りきれると自然に反対側に振れていくものだと思うのですが。 |
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